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かくいう私も青二才でね

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殴り込みシリーズ:ゼロ年代の亡霊の戯言シリーズ再考(後編)

寄稿 アニメ

先週の寄稿の続きで、ございます。

前回:殴り込みシリーズ:ゼロ年代の亡霊の戯言シリーズ再考 

 

 

続きと言っても、前回は原作小説の話がメインだったので、OVAのことだけを読みたい人はこの記事から読んでも十分楽しめる内容だと思います。

 

でも、先週の記事も(すごくピンポイントな人達に)大好評だったから、この記事を読んで「この人の文章は読まなきゃダメでしょ!!」と何かしら共鳴した人は先週のものも読んでいただけると幸いでございます。

 

Ⅱ.クビキリサイクルOVAレビュー


   0


 ようやく、はじまり。
 まだまだ、はじまり。


   1

 さて、後半。
 というか元々頼まれて書く予定だったのはこのOVAレビューだけだった気もするのだけど、どうだっただろう。まあ覚えていないし、今となってはどうでもいい。当初の予定とか、はじめはどうだったか、なんてことは。
 大事なのは――はじまりだ。

 そんなわけで。
 OVAクビキリサイクル――青色サヴァン戯言遣い――』
 第一話「三日目(1)サヴァンの群青」のレビューを始めていこうと思う。

 その前に、ここで改めてネタバレについてのレギュレーションを明記しておく。
 というか、更新しておく。

 あくまで小説、『戯言シリーズ』の雰囲気を伝えることが主眼にあった前半とは異なり、後半の目的はあくまでDVDのレビューだ。
 なので、ある程度以上に内容に踏み込むことは残念ながらやむを得ない。だからここで、はっきりと『ネタバレには特に配慮していない』と明記しておく必要が、やはりあるのだろう。実際のところ、大したネタバレはないように思うけれど*1、念には念を、というやつだ。

そこまでを了承していただいた上で、本題へ進もうと思う。


  2

 まずは前編同様、OVAクビキリサイクル』の基本仕様について確認しよう。
 制作、総監督、キャラクターデザインはそれぞれ『物語シリーズ』同様、シャフト、新房昭之渡辺明夫。音楽には梶浦由記、また、イメージボードにはokamaが参加している(それぞれ敬称略。以下同)。
 OPは三月のパンタシア『群青世界(コバルトワールド)』*2
 EDはKalafina『メルヒェン』。

 そして――1巻につき収録話数は1話のみの、全8巻。
 現段階で、8か月連続でのリリースが予定されている。

 さて、この点については、公式サイトのオープンと同時に、賛否両論、いろいろと話題になっていた記憶がある。実際筆者自身もTVアニメではなく劇場作品でもなくOVAであること、その他制作陣などについてはさほど気になる点はなかったのだけれど、この点については驚いた。
色々な意味で、驚いた。

 1つは、単純に尺の長さに。
 本編約30分のアニメーションが8話分となると、OPなどを差し引いても3時間程度が見込まれる。
 『クビキリサイクル』はたしかに長い小説ではあるものの、饒舌体の一人称というその形式上、文章のかなりの部分が主人公であるいーちゃん戯言遣いのモノローグに割かれているし、ミステリ小説の体裁を採る以上、アニメとして尺が長くなりそうなアクションなどの要素も希薄だ。
 「あの内容で、本当にそんなに尺を使うことになるのか???」
 と、そんな疑問はきっと多くの人に生じていたんじゃないだろうか。

 そして、2つ目の驚きは、BD/DVD8巻という販売形式それ自体に。
 これについてはもう、あけすけに言ってしまおう。
 要するに「15年前に出版された小説のアニメを合計3万円以上のコンテンツとして販売して果たしてどれだけ売れるのか?」という戸惑いがどうしてもあった、ということだ。いちおうは出版当時からのファンを自負する身ではあるけれど――というか、むしろ、それゆえに*3、「本当に大丈夫なのかこれ」という思いがあったのは否めない。
 
 とはいえ、この2つ目の疑問については1巻が発売された現段階では誰にも答えがわからない。
 いちファンとして身勝手な心配こそすれども、それ以上何がわかるわけでもない――そんなわけで、とりあえずは、脇においておこうと思う。
 売れてくれればいいとか、
 続編とかにも期待とか、
 そんな気持ちを表明するに、とどめておこうと思う。

 そして、その一方で、1つめの疑問――「あの内容で、本当にそんなに尺を使うことになるのか???」――については、今となってはそれなりの納得を得ている。

 なので、以降はそれについて、話を進めていこう。

 

   3

「『クビキリサイクル』1冊をアニメ化するにあたり、果たして3時間強の尺が必要なのか」という疑問について、 公式サイトオープン当初、個人的にはまあ、不満とまでは言わずとも――短いよりは長いほうがいいだろうとは思いつつも――「本当に、この尺が必要か?」という思いはそれなりに強かった。その理由は前述のとおりだ。



 では、 そんな思いが解消されるきっかけになったものは何か。
 結論から言うと、劇場版『傷物語』を観たことだった。

 というわけで、劇場版『傷物語』についても確認しておこう。
 2008年に原作小説『傷物語』が発行。2010年にはすでにアニメ化が決定。トレーラーも発表されていたものの公開が延期され続けたまま、2015年に改めて劇場公開が告知。同時に、3部構成であることも発表された。第1部である〈I 鉄血篇〉は2016年1月8日、第2部〈II 熱血篇〉は同年8月19日に公開。第3部〈III 冷血篇〉は2017年1月6日公開が予定されている。

 そして、極めて重要な事実がある。
 劇場版『傷物語』は各60分強の劇場アニメの三部作である――すなわち、書籍一冊を原作とした、3時間程度の尺を所有する作品」である、ということだ。
 OVAクビキリサイクル』同様に。

  劇場版『傷物語』についての感想をここで長々と記述することは流石にやめておく。
 けれど、今後の話に関わる部分として、これだけは述べておく必要がある、という部分だけ記述しよう。

 すると、こうなる――「劇場版『傷物語』の芝居の間のとり方は、西尾維新作品における地の文の圧=空気感=リズムの再現として非常に満足感の高いものだった」と。

 そして、このことを感得した瞬間、OVAクビキリサイクル』について感じていた疑問、「はたして3時間もの尺が必要な作品なのか」は、かなりクリアになった――氷解した。

 以下、より具体的にそのことを説明していくことになるが――その前に。
 重要な点である、「西尾維新作品における地の文の圧」について、個人的な見解を述べておきたい。

 前半(別記事)で書いた通り、『戯言シリーズ』と『物語シリーズ』の共通項は「自己評価の低い主人公と個性溢れる脇役との会話劇というスタイル」だ。
 そして、ここでもう一つ付け加えるなら「饒舌体の一人称小説である」ということだと思う。

  では、それらのことはどのような形で文章の「圧」として現れるのか。

 1つは、文章が口語体、それも音読を前提したリズムを持つ口語体になる、ということがあるだろう。その「まるで誰かが目の前で自分に向かって喋りかけてきているような」文体ゆえに、読者が得る感覚は文章を「読んでいる」という能動的なものよりは話を「聞いている」という受動的なものに近づいていく。

 2つめに、主人公の内面を細部まで描写できる、ということがある。より正確には、主人公の内面「のみ」を細部まで描写できる、ということになるだろうか――つまり、他のどのキャラクタについての描写をしていても、それは「主人公が感得した」印象でしかない以上、ありとあらゆる描写がすべて主人公というキャラクタの内面描写に還元されていくと言える。

 3つめに、ストーリーを展開していくための起点/契機が主人公一人に集約されるというものがある。外部でどのような事件が起きようとも、「それに対して主人公がどうリアクションするのか」が描かれないかぎりは物語が先に進まない。主人公が思い悩み足踏みしている間は、その外部で何が起きていようとも物語はその場で停止し続ける。

 これらのことを総合し、そしてそこから結論するならこうだろう――

西尾維新作品のような饒舌体一人称においては、『読んだ文章量に対して物語(プロット)の進行速度が遅い』」*4
 おそらくはこのこと、これらのことが、読者に対する「圧」として働く。

「圧」というのは、言ってしまえば「負荷=ストレス」と紙一重だ。
 というよりそもそも両者はもしかしたら同一で、良い圧も悪い圧もそこにはないのかもしれないのだけど、なんにせよこの「圧」、もっと端的に言えば「めんどくささ」、に対して愛着を持てるかどうかという点が、ファンであるかそうでないかの分水嶺となっているように個人的には感じている。

 それは逆に言えば「この『圧』を再現できるのかどうか」という点こそが、アニメ化に際して「原作の再現度」の指標のひとつとなると言えるだろう。

 そして、それなら、今度はこのように問いが立てられる。
 アニメにおいて「文体の持つ『圧』を再現できている」とは――具体的にはどのようなことなのか。

 劇場版『傷物語』を観るまで、自分にはそれがはっきりとはわからなかった。
 けれど、その後では、それらは非常に具体的なものとして立ち現われてきた。

 ひとつは、前述の「芝居における間のとり方」として。
 もうひとつが、「(無音を含む)音楽の使い方」として。

 それぞれについて、更に掘り下げていくことにしよう。

 

  4

 まずは「小説とアニメにおける間のとり方」について、具体的な例を挙げつつ考えてみる。

 そもそも小説という媒体においては、台詞と台詞の間には、ある程度の量の地の文が存在する。
 それゆえ、ある台詞と次の台詞の間に地の文という時間差が存在するし、その分量を操作することが小説における「間のとり方」ということになる。これは物理的な、目に見えるものとしての間隔であり、同時に読者にとっては、「台詞の内容以外のことを考えさせられる」という意味で思考上の間隔/飛躍でもある。

 では、これをアニメとしての表現にするとどうなるのか。
 当然、ただただ台詞と台詞の間に空白を作ればそれでいいというものではないだろう。小説における地の文がただの空白ではないのと同様、アニメにおける間のとり方でも、そこには何らかの情報が必要になるはずだ。
 たとえば、それは何気ない日常の仕草であったり、さりげない目線の変化であったり、ふと目を向けられる背景やキャラクタの細部であったりするだろう。そのようなものをどの程度差し込んでいくのか、その判断の結果として「台詞と台詞の間の時間差」が表現されることになる、と、そんなふうに考えられる。

 ところで、当然ながらそれを全ての台詞に対して、しかも目を引く形=間延びしない形で表現していくのは難しい――加えて、そのような難しい難しくない以前の問題として、通常はそんなことをする必要がない。

 けれど、それを「必要だと判断し」「高いレベルで実装した」結果なのだと捉えると、劇場版『傷物語』の3時間という尺は理に適ったものとして受け入れられる。

 その結果として表れてくるのが、「繰り返し使用される阿良々木暦の眼のアップ」「効果音とともにアップになる羽川翼のあざとい表情・仕草」であったり、「明らかに尺が割かれすぎているスカートが風でめくれる描写」であったり、「地下鉄の駅にしては広すぎる構内、長過ぎるエスカレータを歩き続ける阿良々木暦」であったり、「台詞すら一切ないエロ本を買いに行く描写における過剰にハイな演出」であったり……挙げればキリがないほどの、「この映画ひょっとしてどこかおかしいんじゃないか???」という感じの過剰な描写なのだろう*5

  そして、それを見てしまった以上。
 『クビキリサイクル』においてもそのような描写への期待はあった。

 では――実際のところどうだったのか。

www.youtube.com

 


  結論から言えば、劇場版『傷物語』のようにハイでアッパーな、そして実験的な映像ではないものの*6、台詞と台詞の間の取り方という点においては、『傷物語』同様にかなりのところまで「原作らしさ」が表現されていたと、個人的には思っている。

 本編のスタートからして「起きてから何故かストレッチをしている戯言使いの描写」とか、「OP代わりのスタッフロールが流れている間、戯言使いと班田怜が広すぎる屋敷を歩き続ける様子」など。そして、そのように存分に間をとってから登場した玖渚友の「充電中」と「やり場なさそうに目をそらす戯言遣い」という描写。また、戯言遣いに存分にマウンティングしてくるドヤ顔の「天才」達の描写にしても、台詞そのものの強さも相俟って、原作に引けをとらない圧力*7を視聴者側にかけてくる。

 そして、そこで欠かせない働きをするのが劇伴――音楽だ。
 こんなことを言うと、かつて西尾維新当人が、「音楽は小説でいえば行間のみが存在しているようなもので、驚異だ」という主旨の発言*8をしていたのが思い出されるけれど、実際、劇場版『傷物語』のいっそミスマッチなのではと思わないでもないほどの存在感溢れる劇伴*9にしろ、OVAクビキリサイクル』のダウナーな空気を支える一種荘厳な音楽にしろ、そして、それらと同様の存在感を持ってそこにある無音にしろ、それ自体、意味を解釈される前提でそこにあるものではないという点において、『行間』的であると言えるだろう。

 

 「台詞」と「間」と「行間」が、「音声」と「間」と「音楽」として変換され、更にそれらの要素が統一されたリズム、速度を持って存在している。その点において、劇場版『傷物語』、OVAクビキリサイクル』が与える印象はまるで異なるものでありながら非常に近いものであると、筆者は考えている。そして、その「印象」は正しく原作小説の持つ性質を、これ以上ない形で引き継いだものだ。

 まるで無駄なものかのような顔でそこにある文章。
 まるで無駄なものかのような顔でそこにある映像。

 そういったものの積み重ねの末に――文章に、映像に、「『圧』としか言いようのないなにか」が生じてくる。

 そして、その「圧」が効果的に現れるのは本質的に「物語が先に進む場面」よりも「物語がまるで進まない場面」であり、そのような場面をこそ、楽しんで読んで/観ていくことこそが、これらの作品の魅力を受けとめる上で重要な事なのではないだろうか。


   5

 ――なんて。

 そんなことを改めて感じることが出来た、そのような作品であったと言うだけで、この作品を手に取る前まで、その瞬間まで感じていた疑問の多くは、少なくとも個人的には解消されたと感じているし、それは今後も手に取り続けるに足る動機に繋がっている。そのことは――それなりの自信を持って、言い切っておこう。

 そんなわけで、OVAクビキリサイクル』については、未読の方に勧めやすいとはあまり思えないとか、単純に見応えのある絵であるかという意味での作画にはもう少し上を望みたくなる、そんな贅沢を言いたくなってしまうとか、そんな気持ちもあるにはあるものの、少なくとも原作小説を読んだという方であれば、再現度という点においては概ね良好なものとして受け止められるような作品だったのではないかと思っている。

 また、未読の方に関しても、未読なら未読でこれを機に読んでしまえばいい――と、そんな乱暴なことを思わず言ってしまいたくなるのも、決して筆者がファン過ぎるがゆえに冷静さを失っているだけではない、と思う。多分。そのはずだ。

 だから、このブログの主であるところの青二才氏にしても、まずはとっとと原作を読んでしまえばいい――とか。
 そんな感じの落としどころで。 
 長々続いた――まさか前後編になるなんて思っていなかった――この記事も、終わりにしようと思う。

 最後になりますが、お付き合い頂き、誠に有難う御座いました。
 又の機会があるかどうかは――青二才氏の、胸先三寸、それ次第。

 


 〈Contributions from the ghost Ⅰ: introduction〉is the END.

 

 

 

 

著者紹介

きみたり(@kimiterary)

会う度に、青二才がかんべんしてくれと言うまで西尾維新古川日出男を勧めてくるライトサブカルクソ野郎。

青二才にはOFFという海外のフリーゲームや、ガイ・リッチー映画を紹介(したら勝手に本人がハマり、結果的に全部見せる)ことに成功しつつも、未だに読まないように読まないように逃げまわってる青二才に戯言シリーズを読ませるべく、満を持して青二才ブログに殴りこみをかける。

 

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布教かねがね寄稿していただいているので、より多く手に取る人が出てきて頂けると、寄稿を頼んだ甲斐もあるというものです

 

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「文体」を楽しめるような人にこそやってほしい。この作品は世界観にあった文体がキチッとある作品だから。

 

*1:そもそもこのOVA自体が全体の1/8である以上、その中身をどれだけ語ったとしてもネタバレと言うほどのものになりようがないという話ではある。

*2:余談だが、第1弾トレーラーの発表に際し「玖渚友が風呂に入らないと髪の毛が群青になっていく設定がちゃんと再現されていたらボロ泣きしていた」などとTwitterで嘯いていたところ、直後発表されたこの『群青世界』のジャケットで髪の毛が群青の玖渚友がばっちり描かれていて非常に嬉しかった記憶がある。本編のライトブルーの髪色も悪くないが、こちらの群青も、やはり悪くない――いい、イラストだと思う。

*3:「ファンゆえに」という部分について補足しておく。『戯言シリーズ』に関しては、「『物語シリーズ』から入ったけれど『戯言シリーズ』は挫折した」という声や、その逆に、「思い入れがあるからアニメ化は望まない」というシリーズファンの声を見聞きすることが何度となくあった。それゆえに、「読まれているから/読まれていたから、といって、果たしてそんなに売れるのか」という懐疑が、「ファンであるがゆえに」自分の中に強くあった、ということである。

*4:このことについて自覚的に、利用する形で書かれているのが、「ミステリ小説でありながら半ばすぎまで事件が起こらない」小説である『サイコロジカル』ということになる。
 また、最終章『ネコソギラジカル』において、いままであくまで受動的に「物語」に関わっていた戯言遣いが初めて能動的に動いたことによりどれだけ「物語が加速」したかということも、このことを考える上では見逃せないポイントとなるだろう。
 それを踏まえれば『戯言シリーズ』において、「物語を加速」させようとするラスボスが登場したことの意味、読みの可能性を大きく広げられると思われる。――とはいえ、この「物語を加速させようとする存在に主人公である戯言遣いが能動的に立ち向かう」というプロットと、饒舌体の一人称文体が本質的に持つ性質との構造上の合致については、本題とは異なるためここでは扱わないこととする。

*5:具体的な場面に関しては、アニメである以上、実際に見てほしいと思うし、そもそも「あれ」を口頭で上手く伝えられる自信は、少なくとも筆者には全くない。

*6:この点に関しては、劇場版『傷物語』は監督、絵コンテ、演出が尾石達也であり、OVAクビキリサイクル』はそうではない、ということが大きいと思われる。

*7:特に伊吹かなみは妙に長いこと無言で睨みを効かせてくる。小説以上にプレッシャーを感じられる、いいシーンになっていると思う。

*8:たしか『戯言シリーズ』完結記念に発売されたファンブック『西尾維新クロニクル』内のコラムにおける発言だったと記憶しているが、手元に書籍がない(部屋の何処かにはありそうなものなのだが何処にしまいこんだか見当もつかない)ため、確証がない。いや、流石に完全に捏造された記憶などということはないと思うのだけれど、ニュアンスが異なったら申し訳ない。

*9:具体的にどれだけの存在感を放っているのかに関しては、実際に聴いてもらうしかないし、音楽を口で伝える自信なんて描写を伝える以上にない。