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かくいう私も青二才でね

知ってるか?30まで青二才でいると魔法が使えるようになるんだぜ?

殴り込みシリーズ:ゼロ年代の亡霊の戯言シリーズ再考

寄稿 アニメ

今回は、前々から影響を受けてる人に依頼していた寄稿がついに実現!!

しかも、大満足・大容量で僕がかけないようなものを書いてくれたので、ぜひとも読んでいただきたい!!

前書(あるいは読み飛ばしてくれて構わない経緯)

西尾維新

 今となっては紹介すら不要だろう。押しも押されぬ人気作家。そのデビュー作『クビキリサイクル』がOVA化され、つい先日、その1巻が発売となった。

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画像はOVA「クビキリサイクル」公式サイトより

 

これは個人的には嬉しい出来事だし、今後も毎月続巻を買い揃えるのが楽しみに思っている。リアルタイムにシリーズが刊行されていた頃から、噂はありつつも、明に暗に否定され続けてきたアニメ化が、10年越しに実現したのだから。しかも、なんだか8ヶ月もかかるらしいので、その楽しみはずいぶん長く続くようだし。

 ……とはいえ、疑問を持たざるをえない部分もある。 

 

 ――果たしてこのOVA、どんな人が買い揃えていくのか?

 

 ――そしてその原作をして、現在のファンに読まれているのか?

 

そんな風に、どうしても思ってしまう。 

 そもそも来年で15周年を迎えようという作家のデビュー作、読まれていないと考える方が自然なのではないか。ましてや西尾維新。その圧倒的速筆っぷり、多作っぷりは広く知られるところだし……現行のシリーズをすべて追えているというファンすら、もしかしたら稀有なのではないだろうか*1。代表作『物語シリーズ』だけでもすでに20冊を超え、加えて、『忘却探偵シリーズ』『美少年シリーズ』『伝説シリーズ』が併行して刊行されている現状、わざわざデビュー作まで遡る余裕はない、という方が最早自然。だから、現在のファンにこの作品が読まれていなくても、それ自体は何も不思議ではない。

 ない、のだけれど。

 けれど、である。このOVA発売の機を逃したら、それこそ『クビキリサイクル』ひいては『戯言シリーズ』が再び多くの人に読まれる機会はそう簡単には訪れないだろうとも思う。それは、残念なことだ。とてもとても、残念だ。少なくとも、10代前半をこのシリーズとともに過ごし、この作品に価値観のかなりのところまで影響を受けた一人のファンとして、本当に、残念だと思う。

 けれど――ふたたびの「けれど」だ――今や西尾維新読者のうち『戯言シリーズ』からの読者は少数派だとまで仮定できるなら、それは逆に、今こそこの作品が再び読まれる好機であるとすら考えられるのではないだろうか――

 そんなわけで。
 いや、そんなわけではなく。そんな回りくどく大局的なことを考えていたわけでは全くなく、例によっていつものように*2青二才氏に『戯言シリーズ』を勧めていたところ、そこまで言うなら何か書けという話になった。こんなものは本業でも本意でもないしむしろ本末転倒なのだけれど、報酬代わりに青二才氏に戯言シリーズを読ませるくらいのことは出来そうなのでまあ書いてみようと思う。
 前置きが長くなったが、最後に。
 この文章の内容はおおまかに、「Ⅰ.『戯言シリーズ』の紹介・再考」「Ⅱ.OVAクビキリサイクル』のレビュー」の二点に集約される(一応、全体を通してネタバレへの配慮は行う予定だし、それについては各章の開始段階で明記する)。

 また、この文章の目的は「青二才氏に『戯言シリーズ」全9冊、6タイトルを読了させる」だ。だからまあ、別にちゃんとした批評、評論、そういうのはするつもりがあまりない*3。いちファンとして友人に布教したいがためだけにこの文章は書かれている。別にそれを踏まえて読んで貰う必要は微塵もないのだけれど、足場はあるに越したことはないだろう。そんな風に、勝手ながら思いつつ。いい加減に、本題に入ろうと思う。


本編Ⅰ.『戯言シリーズ』再考:紹介編

   0

 形から入るのもまた一興。

   1

 作品を「紹介する」以上、まずは基本的なデータから並べるべきだろう。

クビキリサイクル』は第23回メフィスト賞*4受賞作として2002年2月に刊行された長編ミステリ小説である。雑誌『メフィスト』上の座談会において『京都の二十歳』の異名を得ていた西尾維新の満を持してのデビュー作であり、『戯言シリーズ』6作品――『クビキリサイクル』『クビシメロマンチスト』『クビツリハイスクール』『サイコロジカル』『ヒトクイマジカル』『ネコソギラジカル』――の第1作。発売時の帯のコピーは清涼院流水による「西尾氏、イチ押し」。なお、同2002年の間に3作目「クビツリハイスクール」までが約3ヶ月スパンのハイペースで刊行されている。また、以下にAmazonから紹介文を引用する。

” 絶海の孤島に隠れ棲む財閥令嬢が“科学・絵画・料理・占術・工学”、5人の「天才」女性を招待した瞬間、“孤島×密室×首なし死体”の連鎖がスタートする! 工学の天才美少女、「青色サヴァン」こと玖渚友(♀)とその冴えない友人、「戯言遣いいーちゃん(♂)は、「天才」の凶行を“証明終了(QED)”できるのか? 第23回メフィスト賞受賞作。”
 
 では、ここで約束通りネタバレに関しての明記をしよう。以下の文章は上の紹介文と実際に小説を読み始める段階において、本編が始まる以前にわかっている情報――すなわち、『登場人物紹介』『あらすじ』『帯・キャッチコピー』以外の内容は含まない。そして、ここからの内容はデータではない。必要なことは当然調べるけれど、筆者の主観、記憶に頼った表記がそれなりに無遠慮に含まれる。それでよければ、続けよう。

 

   2

 さて、続けようとか言ってみたものの、結局のところ、どのように紹介するのがいいのだろう? 不要なネタバレはしないと言った以上、戯言遣いと玖渚友との関係だとか、世界観についての細かい分析は(少なくともこの『紹介編』では)相応しくない。なら、どうしようか?

 と、考えると、自然、話の軸は「この小説はどのように読まれてきたのか」というようなメタな部分に向かうしかないように思う。

 なので、それについて端的に述べてみるなら、こうだろうか。

「『クビキリサイクル』ひいては『戯言シリーズ』は、主人公である『いーちゃん戯言遣い』が読者に共感を持って受け入れられてきた*5という点において、一人称小説として成功した作品である」

「また、若干20歳の小説家のデビュー作が更に若い18歳の新人イラストレーター・竹のイラストとともに、『新青春エンタ』として10代の読者をターゲットに売り出されたことも当時のミステリレーベル、講談社ノベルスの作品としては異色であったが、結果としてそれも成功であった」

 かなり主観的だが、こんなところだろうか。
 実際、この作品を読んでいて戯言遣いの気持ちが微塵もわからないとすればなかなか読み続けるのが難しいと思うし(当然、それが良いとか悪いとかの話ではない)、竹先生のイラストが10代の読者やライトノベルの読者層を獲得する上で影響がなかったとは考えにくい。当時の平積み台を思い出しても、とにかく、目を引く絵だったのだから。

 ともあれ。

 括弧つきで長々書いてみたがこんなものは照れ隠しみたいなもので、それこそ格好つけているだけで、実のところ筆者としては雑に、ただの記憶と実感レベルで、こんなふうに言ってみたいのだ。

 要するに『戯言シリーズ』は太宰の『人間失格』みたいに読まれてきたのだし、そして一見そうとは思われないような、ケレン味溢れる設定と装丁とがセットで売られてきた、一見ライトノベル然とした、しかし実はライトノベルらしからぬライトノベルだった、と。

 さて、(引き合いに出しておいて雑な話ではあるが)刊行部数にして600万を数える太宰治人間失格』についての説明なんてそれこそ不要も不要だろうから、ここで同作品について重要な点だけを拾い、明言しておくとすれば、主人公を見ていて「『まるで自分の話のようだ』と思ってしまう読者が一定の割合で存在する(少なくともそのような言説が長年ある)」ことと、「しかし、実際よく考えてみるとどう考えても主人公は読者よりハイスペックである」ことだろう。

 この手の感情移入については、心無い笑いの種にされることもしばしばだが、しかしフィクションへの感情移入とは往々にしてそういうものでしかないのではないか、とか個人的には思う。主人公と読者=自分がデータの上では釣り合わないとして、それが何だというのだろう。自分では遠く及ばない人物がつくりだす「何か」を「まるで自分のことのよう」に楽しめる――喜び、怒り、哀しめる。それで何が悪いのだろう。誰に笑われる謂れもないし、文句を言われる筋合いもない。

 なんて。そんな感情論は脇に於くにしても、少なくともそういった感情移入――「まるで自分のことのよう」に楽しめる――喜び、怒り、哀しめる可能性がある程度以上に開かれている物語としてこの『戯言シリーズ』を推す理由は個人的には十二分にある。ただただ実体験の延長として、充分以上にある。

 だって、なんといっても、戯言遣いは本当に、本当に可哀想なやつなのだ。
 まるで幸せに辿り着けそうもないやつなのだ。もしかしたら『人間失格』の主人公、葉蔵がそうであるように。
 
 そして、『戯言シリーズ』において、それは戯言遣いに限った話でもない。メインヒロインである玖渚友にしろ、第一作『クビキリサイクル』に登場する「天才*6」たちにしろ、普通の生活を送りたくても送れない感性の持ち主としての描かれ方で言えば戯言遣いと大差ないし、第二作以降で登場するあらゆるキャラクタにしたところで、どこかで社会との不和を抱えたキャラクタたちがほとんどだ。

 一言で言って、普通には生きられない。
 普通ではない、彼ら、あるいは、彼女ら。

 そういうキャラクタたちと、主人公が交わす言葉が――戯言たちが、結局この作品の最も魅力的な部分なのだと思う。どいつもこいつも普通じゃなく、どいつもこいつも真っ当じゃなく、コミュニケーションは端から破綻しきっている。みんな違うけど、みんないいってわけでもなく、むしろみんながみんなわけがわからない。眼と眼が合わず、話は噛み合わない。そんなキャラクタたちの、コミュニケーションならぬディスコミュニケーションの物語。そんな物語が/そんな物語なのに、ハッピーエンドを迎えることができる*7

 その事実こそが、読者に可能性を見せてくれる。
 もしかしたら、自分にも、なにかの幸せに到れる瞬間がくるのではないか。
 なにかがどうにかなる瞬間が、訪れるのではないだろうか。
 そんな、可能性を。

 例えば『人間失格』におけるラストシーンが、そうだったように。なんだか単に暗い小説だと言われてしまうフシがある『人間失格』だけれど、終盤の主人公の独白、最後、主人公が退場してからの、主人公のことを回想するある人物の台詞は、理解者に恵まれないと思いこんでいた男が、知らないどこかで、なにかの形で、肯定されている可能性を描いていたように思う。
 ただただ自己肯定を望む態度で本を読むことはただの現実逃避だとしても、しかし読者の無様と作者の意志は全く別の問題だ。そして、なんらかの可能性を示そうとする作者の意志も、それが正しく伝わるか誤読されるかも、全て別のレイヤーでの出来事だ。そんな風に思うし、思うがゆえに、その可能性が開かれている作品は、ただそれだけで勧める理由があるのではないだろうか。

 なんて、自分自身のことはともかく。
 少なくとも『戯言シリーズ』のキャラクタたちは(全員ではないにしても)辿り着くべき場所に辿り着いてくれる。そのことは、10年以上、この作品を読み続けてきた人間として保証できる。
 だから、本当に多くの人に、いまよりもなお多くの人に、この作品が読まれてほしいと心から思っている。それこそ、いちファンの戯言にすぎないとしても。

   3

 ……なんだか、ちょっと感傷的になりすぎたきらいがある。まあ、ネタバレを防ごうとすればそりゃ他に引き合いに出すものを持ってくるしかないわけで、ここについては諦めるとしても。それにしても、もうちょっと冷静に語るべき事があるように思う。例えば、当時の西尾維新はどのようなイメージを持たれていたのか、とか……具体的には、当時西尾維新が所有していた二つ名、『萌えキャラ殺し』についてとか。

 よくよく考えれば、勧める側としてはここについて語り逃すことはリスクが伴う。
 特に物語シリーズ以降からの、かつ他シリーズをあまり読んでいない読者が『戯言シリーズ』を読んだ場合、最も驚くポイントは、もしかしたらこの点――『戯言シリーズ』では、かなりの数の登場人物が死亡という形で物語から退場していく点、なのではないだろうか。

 以下については完全に記憶頼りだけれど、西尾維新が『萌えキャラ殺し』の異名で通っていたのは、戯言シリーズが刊行されていた2002年〜2006年であり、その後『物語シリーズ』のヒットに伴いこの二つ名はほとんど意識されることがなくなったはずだ(なんせ実際問題、『物語シリーズ』ではほぼほぼ死者が出なくなった*8わけだし)。だから、『萌えキャラ殺し』と聞いて「ああ、西尾維新ね」となる人は初期5年間のファンだということになるのだろう。

 そも、この『萌えキャラ殺し』という異名は「ストーリー展開上殺す予定のキャラクタだからこそキャラを立てる」という〈当時の)西尾維新のスタイルに由来する。
 そして、それを執筆の中ではっきり意識したと公言されている第二作『クビシメロマンチスト』以降、一貫してシリーズ完結までこのスタイルは持続していた。

 ではこのスタイル、作品の読まれ方にはどう働いたのだろう。

 前段でも触れた通り、『戯言シリーズ』は主人公いーちゃん戯言遣いとその他のキャラクタの織りなす会話劇にこそ、その魅力の軸があると思う。ただ、それは『物語シリーズ』的なハイでコミカルな会話劇に比して、はるかにダウナーでシニカルな会話劇だ。あるいは、『物語シリーズ』的なコミュニケーション上のサービスやポーズとしての攻撃的なやりとりの場ではない、むしろ根本にディスコミュニケーションを抱えたキャラクタたちの、広義の哲学を戦わせる場としての会話劇だ、と言ってもいい。だから、「内省的で自己評価の低い主人公と個性溢れる脇役たちとの対話劇」という表面上のスタイルは類似しながらも、『物語シリーズ』と『戯言シリーズ』の持つ空気感にはかなりのギャップがある。

 ある、とか断言してみても、空気は空気、雰囲気は雰囲気。
 ふんわりと感じ取るものでしかない以上、言葉で表すのはそう簡単ではないのだけど、それでも無理やり括ってまとめてしまうなら、『戯言シリーズ』の持つ空気は、ダウナーでありラディカルであり、刹那的であり虚無的であり、ピンと張り詰め、ヒリヒリしていた。

 ふんわりとなんてしていなかった。
 そして、その空気感を支えていたものは、紛れもなく『萌えキャラ殺し』というスタンス、すなわち「『今話しているキャラクタがいつ死んでしまってもおかしくない』という圧倒的な『現実( *9 )』を基盤に置くこと」そのものだったのは間違いない。それゆえに、どんなコミカルな会話パートすらも、ある種の虚無感を持って受け止められていた部分があったと思う。
 その瞬間、どんなに楽しそうにしているとしても、その前後のエピソードで誰かが死を迎えている。

 そんな中でも、むしろそんな中だからこそ、楽しいことをしようとするスタンス。
 今、この時が本当の意味で全てになってしまうのかもしれないという刹那的な感覚。

 それが常に作中にあったことが、『戯言シリーズ』という作品の作品の際立った魅力だったのではないか。
 そんな風にまとめて、そろそろ紹介編を終えよう。

 

    4

 さて、終わりはあっさりまとめてあっさり終えたい。

 

 書いている側としては、これはあくまで紹介編なのでとりあえずは「どういう雰囲気の作品なのか」が伝わっていればいいと思うのだけれど、これで伝わったかは甚だ疑問だったりするわけで。

 なので最後にすごく具体的なことを一つ添えておこうと思う。
 Kindle版『クビキリサイクル』はAmazonで無料サンプルがダウンロードできる。

  クビキリサイクル 青色サヴァンと戯言遣い (講談社文庫)

 

 

 なので、ぜひプロローグを一読してもらいたい。
 このシリーズの常なのだけど、プロローグがきれいに本編を抽象しているので、ある程度、自分との相性がわかるのではないだろうか、と思う。

 それでは、前半戦――原作小説についての話はここまでだ。
 つづけて、後半戦――OVA版(第1話)について、話をしてみようと思う。

 

 

 

 

 

というわけで、続きます。

 

 

著者紹介  

 

きみたり(@kimiterary)

会う度に、青二才がかんべんしてくれと言うまで西尾維新The Mirrazを勧めてくるライトサブカルクソ野郎。

青二才にぱにぽにだっしゅ境界線上のホライゾンを見せたほか、ユリ熊嵐を解説付きで見せることには成功したものの、未だに読まないように読まないように逃げまわってる戯言シリーズを読ませるべく、満を持して青二才ブログに殴りこみをかけてきた。

 

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影響を受けたというよりもむしろ、手直しする時に協力してもらった記事。

 

*1: 実際、筆者にしても現行シリーズで全作品を所有しているのは「伝説シリーズ」「美少年シリーズ」だけだ。過去作まで遡るなら『偽物語』以前までの単行本はすべて揃っているけれど、「タンデムロータの方法論」は恥ずかしながら所有していないし読んだこともない。

*2:筆者が青二才氏と知り合ってから2年くらい経つと思うが、その間数十度に渡って勧め続けているのが『戯言シリーズ』と『境界線上のホライゾン』だ。多分両方合わせると文庫で3万ページを超えるだろうが、1分で3ページ読めば1万分、167時間弱で済むわけで、最近のRPGでもやりこんだつもりでとっとと読んでほしい。

*3:「そもそも西尾維新評論は西尾維新本人が最も上手い」というのが、筆者の立場だったりする。これについては、『少女不十分』を読んでしまったことが非常に大きい(あの小説はこれ以上ないほど、作家による自己批評小説だったと思う)。セルフイメージを作家自身が都合よく塗り替えようとしたと読んでもいいのかもしれないが、まあ、それはそれに興味のある人が書いてくれればいいというか(あるなら読んでみたいかもしれない)

*4:雑誌『メフィスト』創刊とともに立ち上げられたミステリ小説を中心とするエンターテイメント小説賞。京極夏彦のデビューを契機とし創設され、第一回受賞者は森博嗣。ちなみに森博嗣西尾維新が「『これまでの人生、一冊の森博嗣も読まなかったら』、これはぼくが世界で最も恐怖する質問です」「作家になりたかったのではなく、森博嗣になりたかった(から作家になった)」と各所で語る作家でもある。また、後の直木賞作家である辻村深月、同様に三島賞作家となる舞城王太郎佐藤友哉なども同賞からデビューしている。

*5:05年、06年の「このライトノベルがすごい!」において戯言遣いが2位、1位にランクインしているあたりからも、戯言遣いがキャラクタとして読者からの強い支持を受けていることが伺える。

*6:西尾作品における「天才」描写の問題についてはいずれ書くことになるように思っている。(より抽象的に、西尾作品におけるキャラクタの記号性の問題について、として)

*7:「ハッピーエンドである」というのもネタバレではないのかという点についてだけ補足しておくと、シリーズ最終作『ネコソギラジカル』下巻の帯は「ぼく達は、幸せになった」なので、これについてはレギュレーション違反ではないと思う。余談だが、筆者はこの帯を見た瞬間書店で涙が止まらなくなったので、仕方なく泣きながら会計を済ませた思い出がある。思い出っていうか、普通に黒歴史である。

*8:正直、『偽物語』までしか読んでいないので確かなことが言えない。一部の敵以外、身内側は死んでない……よね?

*9:鈎括弧付きにした理由はこの場合の「現実」は「作品世界内での(自分の周りではいつ誰が死んでもおかしくないという)現実」でもあり「読者にとっての(いつそのキャラクタが死んでもおかしくないという)現実」でもあるから。二重性。リアリティレベルとか言ってもいいのかもしれないけれど、どうにも便利語っぽいので使いにくい。