かくいう私も青二才でね

知ってるか?30まで青二才でいると魔法が使えるようになるんだぜ?

ロッテの監督、球団創設以来ずっと呪われてる問題


 

調べてみるとあんまり酷かったので、一度記事にして見ようと思いました。

 

何が酷いかというと、

1、球団創設以来、一貫して何かしらのトラブルを起こしている。(巨人を除いた全球団が歴史上どこかで躓いているが、ロッテは安定している時期のほうが少ない
2、優勝できたり、優勝できそうな人がことごとくオーナーやフロントと揉めたり、事件で辞めたりしている。

3、プレーオフ、CS(クライマックスシリーズ)を使って日本一になることが多いが、実はレギュラーシーズンでの優勝は1974年以降、ない。(あれはプレーオフでも通年の勝率でも1位なので、正真正銘の優勝)

4、にも関わらず、AクラスやCSの出場・CSによる逆転優勝で満足してしまうから、優秀な生え抜き選手が抜けたり、無理が生じておかしくなったりする。

 

…僕はオリックスファンだから、ロッテが勝手にひどくなった挙句、優秀な指導者がオリックスに流れてきてくれるからロッテには酷いままでいて欲しいぐらいなんです。

阪急時代の西本幸雄さんも、今オリックスのヘッドコーチとしてオリを立て直してくれている西村徳文さんも、ロッテがちゃんとしてたらオリックスに来てくれなかっただろうから、ロッテの選手やファンにはかわいそうだと思うけど酷いままでいて欲しい気持ちもあるんです。(あと、巨人ファンは荒川博と落合博満の流出のお陰でいい思いをしているから、巨人にとってもロッテが酷いほうが都合がいいって言う

 

でも、野球ファンとしてはどこの球団行っても野球選手には幸せになって欲しいし、もらうものもらってほしいし、ダメなオファーは断って欲しいから…敢えて記事にしようと思う。

 

球団創設以来のトラブルを全部まとめたらかなり長くなってしまったから、目次もつけておきます。
全部見たい人は全部見ればいいし、逆に「ここだけみたい」という人はそれを選んでどうぞ。

 

 

ロッテ監督、主要選手の事件と不祥事年表 

球団創設以来と書いているように、本当に大昔から酷いんです。

しかも、70年代までは「強いのに、フロントが酷い」という球団だから…かなり不思議なんです。

 

あんまりにも酷いエピソードが多く、淡々と書いてもかなり長くなるから、年表形式で紹介していく。

 

ド頭から優秀な監督をわずか3年で失う

1950年

湯浅禎夫総監督率いる毎日オリオンズは、毎日ミサイル打線を率いて2リーグ制初のシーズン優勝と日本一を勝ち取る。

 

しかも、当時の規約のゆるさから、総監督登録なのに、(消化試合とはいえ)投手としても出場。

当時48歳の湯浅禎夫と、阪急の監督兼投手(こっちは本当にプレイングマネージャー)で48歳11ヶ月の浜崎真二とで合計96歳の投げ合いも繰り広げている。

 

1952年

平和台事件が勃発。

 

当時ナイター設備がなく、日没まで粘れば試合が中止になる時代。
さらに遅延行為を審判が注意しないルールのゆるさ。
それらを利用して監督主導で様々な遅延行為を連発して、試合を中止に追い込む。
だが、『勝ったのに、遅延行為のせいで試合中止になった』という西鉄のファンが怒りのあまり暴徒化し、大問題になり、監督の退陣問題にまで追い込まれる。

 

こうして、オリオンズは「日本一にも輝き、3年連続Aクラスの名監督」を、失うことに…。

 

榎本喜八を壊しながら自らも壊れていく大毎オリオンズ

平成になってからの野球ファンには馴染みがないかもしれないが、かつてオリオンズには天才の中の天才とされる打者がいた。

 

しかし、その打者は球団フロントの政治的な思惑に巻き込まれ、アスリート

1955年

後に、川上哲治から「打撃の神様と呼ばれるのにふさわしいのは榎本喜八」とまで言わしめた榎本喜八が入団
冗談で「高校3年間素振りを500回したら世話してやる」といった当時の選手だった荒川博に、本当に3年間素振り500回を毎日した後で再びお願いしに来て、入団テストを組んでもらう。
テストでは有無も言わさない実力を見せつけて、入団。

 

テスト入団ながら、ありとあらゆる歴代新人最高記録をマーク。

 

1958年

大毎オリオンズに名前が変わる

 

1960年

西本幸雄監督が大毎ミサイル打線を率いて、リーグ優勝。

しかし、日本シリーズでの作戦をオーナーが批判されたことから日本シリーズ中にもかかわらず、オーナー「永田雅一」と大喧嘩に。

結果、就任1年目からリーグ優勝したにもかかわらず、オーナーとの不仲が理由で事実上の解任になる。

 

西本幸雄との大喧嘩をきっかけに、ムキになった永田雄一は、大映でオリオンズの経営を掌握し、ここから数年に渡って球団に口を挟むことになる。

球団経営に携わる毎日と大映に毎日時代からオリオンズにいる選手たちは、巻き添えを食らっていくことになる

 

1961年

榎本喜八、史上最年少で1000本安打を達成。(未だにこの記録は破られてない)

 

榎本喜八の世話人で理解者でもある先輩、荒川博が放出される形で引退。

62年以降は、巨人のコーチとして王貞治の一本足打法を作り上げるなど、V9時代の指導者として貢献。

 

1963年

ついに、ミサイル打線の解体を宣言され、様々な選手が引退・流出する。

榎本の理解者であり、ミサイル打線の4番打者「山内一弘」は阪神へ。(代わりに、阪神の大投手「小山正明」がオリオンズへ。オーナー肝いりのトレードの実現に気を良くした永田雄一は、小山に外車を送るほど大喜びしたし、小山も大活躍したが、野手の中心選手を失ったことで、オリオンズは本格的に迷走期に入る。

本堂保次監督から冷遇されたベテランの田宮謙次郎が引退。

 

主力選手を二人も失って、毎日時代の選手をコーチにもしてないため若手も育たず、本堂保次が監督する63~65年はずっとBクラス。

 

1964年

本拠地が北千住の東京球場に移り、東京オリオンズに名前が変わる。(それまでは後楽園)

 

前年に永田雅一オーナー自ら「チームの貢献しているから打率の心配など心配しなくていい」とまで言っておきながら熱い手のひら返し!

打率が3割に二厘足りないことを理由に、当時出ることになっていたボーナスを出し渋られ、さらに減俸。

さらに、(その時も球団の看板選手だったのに)自身の背番号を期待の新人に渡そうとする。

 

貧乏な家の出身でお金と野球には神経質だった榎本はここから大きく壊れ始める。

 

1965年

榎本は耳鳴りや頭痛に悩まされる。

チームも5位で、監督3年目の本堂保次が残り10試合で休養を取り、オフに解任。

 

1966年

榎本喜八、自己最高の成績を収めるも、奇行と個人プレーに走っていたことで若手に馴染めず、理解者もいない球団で完全に孤立。

 

1968年

濃人渉が監督に就任し、1960年以来のAクラスへ。

 

榎本喜八、史上最年少で2000本安打達成(※日本だけなら今でも最年少。日米を入れてるとイチローが最年少)

 

1969年

ロッテオリオンズに球団の名前が変わる。

でも、ロッテは名前を貸しているだけで、相変わらずスタッフは永田雅一中心の球団。

 

そのため、榎本喜八の奇行はますます悪化していく。

 

1970年

濃人渉監督が率いるロッテミサイル打線…永田雅一が(毎日の選手を追い出したり、背番号を取り上げようとしてまで)かわいがってきた大毎以降の選手たちが大活躍し、10年ぶりのリーグ優勝。

 

一方榎本は濃人渉からも

「(選球眼が歴代でも随一で四球による出塁が多い選手なのに)ボール球を振りすぎ」

と指摘されて、怪訝に思うなど関係は良くなかったとか。

 

…永田雅一にも同じことが言えるけど、濃人渉もまた、愛弟子や手塩にかけて育てた選手しか可愛がらないタイプの人だから、チームが強くなっても榎本の悩みは解決されなかった。

 

1971年

1月に大映の経営再建のために、永田雅一が球団経営から撤退。(優勝からわずか3ヶ月)球団中村長芳がオーナーに。

 

放棄試合事件が勃発。

審判に抗議したのは濃人渉監督だが、試合を途中で放棄する決断をしたのはオーナーの鶴の一声によるもの。

ところが、多額の違反金・賠償金が課されると監督が責任を取らされて、辞任する。

また、辞任した形で後の大沢親分こと大沢啓二が仕切ることに。

 

急に監督を引き継いだにも関わらず、チームは2位と大健闘。

気を良くしたオーナーから5年契約を持ちかけられる。

 

ところが、この大沢啓二が、榎本喜八にとどめを刺してしまう。

大沢啓二との方針の違いから、大沢のいた医務室のガラスの窓を叩き割る。
大沢は榎本に二軍行きを告げる。

 

この事件で限界が来た榎本は、自宅の応接間に銃を持って立てこもった。

成績不振と奇行が限界まで来た榎本は1972年に西鉄へ移籍し、そこでユニフォームを脱ぐ。

 

引退後は、野球には携わらず、野球選手として買い戻した「先祖代々の土地」が高騰したことによって、家賃収入や管理費などで生活。貧しい家のためにがんばった榎本だからこそ報われたいい話でもあるのだが…まともな精神状態であれば、打撃コーチや監督だって夢じゃない人が、野球と関わりにくいところまで追いやられてしまったのはファンから見ると悲劇にも見える。

 

榎本が最後に仕えた監督が稲尾和久さんだったのだが…まさか次にロッテ球団起こすの事件に巻き込まれるのが稲尾さんだとは当時は想像もしなかっただろう。

 

落合博満を巡る「先見の明」と「迷走」の話

「川崎球場の狭さを活かして、ホームランバッターである落合を取れ」

辞任する直前の金田正一は川崎球場の地の利を活かすべく、落合の獲得を指示。

 

しかし、落合を巡って金田自身も、ロッテも対応を誤って結果、落合の流出と球団の暗黒期の到来を招くことに。

 

1972年

前年度2位だったが、フロントはコストカットとして榎本喜八や、江藤慎一(前年度首位打者)らをトレードに出す。

 

主要な選手がいなくなったことで、チームが低迷し、5位。

 

5年契約を結んだ大沢啓二だったが、成績不振で5年契約はなかったことになり、解雇されてしまう。(好成績を収めた翌年以降、フロントが弱体化の原因を作り、監督が犠牲になる球団文化は、40年ぐらいずっと続いている。)

 

結果、大沢啓二は解説者を経て日ハムへ。
日ハムの優勝に大きく貢献していくのは…もうちょっと先の話。

 

11月に、中村オーナーが太平洋クラブライオンズの経営に参画したことで、ロッテからは退く。

以降現在まで、重光武雄がオーナーを続けている。

 

1973年

この年から1977年まで「ジプシー・ロッテ」と呼ばれる本拠地が決まらずに、各地を転々とする時代が暫く続く。

 

これはロッテが東京球場の買い取りを渋ったばかりか、72年オフに監督になった金田正一が「東京球場は両翼の狭い投手泣かせの球場だから買い取る必要なし!」といったことが原因。

 

ただ、人気者の金田正一が、ホーム以外でも各地を回ることになったため、大盛況となり、翌年の優勝への原動力になっていく。

1974年

濃人渉以来4年ぶりの優勝。

 

前期後期の勝者によるプレーオフで優勝を決する制度だったとは言え、通年の勝率で見ても、ロッテが1位。

これ以降、(この記事を書いた2017年現代)まで、43年間レギュラーシーズンでの優勝は1回もない!!

 

CSやプレーオフでの優勝は00年代以降に2回あったが、レギュラーシーズン1位はこの年が最後!

 

仮の本拠地が仙台だったが、優勝パレードは銀座で行ったことから、東北の野球ファンから大ブーイングを食らう。(これが後に、楽天ができた後にはファンの結束力へとつながっていく。

 

1975~1977年

優勝メンバーの流出は本拠地が決まらず、移動が多い不利な戦いを強いられて、チームは惜しくも優勝を逃す日々が続く。

ロッテにしては珍しく流出もなく、補強もしているが、本拠地がないのが痛すぎた。

 

1978年

本拠地が川崎球場に落ち着く。

しかし、金田正一は主力選手に引退を迫ったことから、求心力を失って、15連敗という迷走をし、それが原因で監督を辞任。

 

監督に対するフロントの判断がだいたい間違ってるロッテのフロントが、ちゃんとふわさしくない監督に引導を渡したロッテの歴史の中ではかなりレアな事例

 

 1979年

落合博満入団。

 

その年就任した山内一弘からフォームの修正を促されるが、山内監督の理論通りにやるとうまく行かず、その年はあまり活躍せず。(※これは山内の理論が間違ってるわけではなく、当時の落合とは合わなかっただけ)

 

入団当初のフォームを酷評した評論家は数多くいたが、中でも(前任監督で、落合を取るように言った一人でもある)金田正一は面と向かって酷評したため、入団2年目以降「2000本打てても(金田が作った)名球会には入らない」というようになる。

 

 1980年

シーズン後半から落合が覚醒。57試合(166打数)で本塁打15本という、後に3冠王やホームラン王を取るシーズンにも引けを取らないペースでホームランを量産。

 

チームも前記優勝するが、プレーオフで後期優勝の近鉄に敗れる。(ちなみに、この時の近鉄の監督は20年前、揉め事からロッテを追われた西本幸雄であった)

 

1981年

落合、初のオールスター出場。
初のオールスターで西本監督から「将来を背負うバッター」だと見出され4番に抜擢される。

初の首位打者も獲得。

 

一方山内監督は2年連続プレーオフで負けてしまったため、辞任することに。

 

1982年

落合、初の三冠王に。

しかし、新しく来た山本一義監督が全然ダメで2年で辞めてしまう。

 

1984年

稲尾和久監督が就任。

 

この時の条件が「ロッテを数年以内に福岡に移転させる」というもの。

(西武になったことで本拠地が埼玉に移った)かつての西鉄出身の稲尾さんが、九州に球団を取り戻すために。

 

しかし、これが後にとんでもない事態を引き起こす原因となる。

 

1985年

落合は2度目の三冠王、落合だけでなく、レロン・リー、西村徳文も活躍してチーム打率1位。

 

しかし、投手陣が優れず2位へ。

 

1986年

一時、極度の不振に陥るも(稲尾の助けなどもあり復調。)落合は3度目の三冠王に。

 

しかし、チームは4位と低迷。
福岡移転の話が動かないこともあって、稲尾監督はこの歳限りで辞任。

 

稲尾監督を慕っていた落合は
「稲尾監督のいないロッテなんて自分のいる必要がない」

とまで言い放ち、次期監督の有藤道世は

「落合をトレードに出すのが監督を引き受ける条件」

と言い放ち、結果、落合は中日へ。

 

落合を欠いたロッテは、以降95年のボビー・バレンタイン監督の就任まで、ロッテはBクラスをさまよい続けることになる。

 

よく落合が変わり者だから、強気発言をしてロッテを飛び出したように言われるが、落合がロッテを出る原因を作ったのは、稲尾監督と無理な約束をし、有藤道世を監督に据えた(落合よりも優先度をあげてしまった)フロント。

 

この事は、これを機会によく理解して欲しいところ。

 

平成になってもトラブルが絶えないロッテ監督たちの歴史。

記憶にあたらしいのはここらへんだと思います。

 

千葉に移ってからもロッテのフロントは監督と確執を起こしたり、優勝できそうなタイミングで主力選手を移籍させたり、そういうことを平気でやってます。

 

1990年

村田兆治引退。
東京ロッテの時代から22年間在籍して、監督や球団名、本拠地が変わってもなおコンスタントに成績を残し続けたことを考えると、まさに「超人」と呼ぶにふさわしい選手だと改めて思う。

 

1991年

翌年から本拠地を千葉に移し、「千葉ロッテマリーンズ」になることが決定。

 

1992年~1994年

本拠地が変わってもチーム自体は弱かったため「12球団最低レベルの観客動員数」は解決されず。

 

八木沢監督就任中ずっとBクラスで94年のシーズン途中で休養。
後任を監督代行をした中西太に要請するも、中西は断り、退団。(その後、オリックスへ。)

 

1995年

日本球界初のGMに広岡達朗氏を据え、その広岡氏はボビー・バレンタイン監督を招聘。

 

チームは2位になるが、ボビー・バレンタインに無断で選手を休みの日に特訓させるなど、広岡達朗からの介入に我慢ならず、確執が生じる。

 

この時、広岡が重光オーナーに監督をやめさせていいか判断を仰いだところ

「困らない」

といって、バレンタインを辞めさせることになるのだが…彼が帰ってくるまでの10年間、ロッテはAクラスにも上がらない困ったことになる。

 

1998年

日本プロ野球史上最低の18連敗を喫する。

 

1999年

 ロッテ暗黒時代のエースで、「小宮山悟」がFA移籍を申し出たところ、球団から同リーグに所属しないことを条件とした自由契約を提案される。
(横浜に2年在籍してメジャー…そして、ボビー・バレンタインが帰ってきた時に仕方なくロッテへ復帰)

 

2004年

バレンタイン監督、復帰。4位ながら、3位と0.5ゲーム差で勝率5割の善戦。

 

2005年

ボビーマジックと呼ばれる独自の采配を駆使して、レギュラーシーズン2位へ。

 

色んな選手をバランスよく使ったことで、古株の選手以外にも西岡剛、今江敏晃も台頭。

 

その後、プレーオフでソフトバンクを倒して優勝。

 

日本シリーズでは、阪神タイガースと戦い、かの有名な「33-4」をやってのける。

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気を良くしたバレンタイン監督は、この年のインタビューで

広岡さんは私を日本球界に誘ってくれた恩人

といったり、

このチームは世界でイチバンです!!

と叫んだり、してた。

 

バレンタインはまだロッテさんの恐ろしさを知らなかったのです…。

 

2006年

(ピークを過ぎていたとは言え、)前年26盗塁の小坂誠と、
日本の野球に慣れてきて前年30本塁打の李承燁を巨人に金銭トレード。

 

将棋で言うところの二枚落ちの状態になり、チームは4位に。

小阪はともかく、李承燁は翌年以降大ブレイクすることになるため、フロント側の判断ミスと言える。

 

2007年

成瀬善久が16勝1敗の大ブレイク!!

チームは2位へ進むも、クライマックスシリーズで敗退。

 

2008年

シーズン前半で、投手は不調、主力捕手が3人怪我するという大事故になって、出だしから大失速。

 

成績不振と高額な年俸を理由に、ボビー・バレンタインとの契約を更新しないことがこの年のオフに決まる。(この件に関しては週刊誌の取材でバレンタインは球団を批判するほどご立腹。)

 

2009年

当然、そんな状況で(監督も選手も)やる気なんか出るわけもなく、チームは低迷。

 

2010年

バレンタイン時代のコーチでもあった、西村徳文が監督に就任。

 

レギュラーシーズン3位、クライマックスシリーズを駆使して日本一へと上り詰める。

ちなみに、レギュラーシーズン3位からの日本一はこの年のロッテが史上初の達成なので、ある意味優勝するよりもすごいことをやっている。

(※3位からリーグ優勝は前期後期時代に南海がやったことあるが、日本一はロッテが初) 

 

ただし、この年限りでリリーフエースの小林宏はFAで阪神へ。(しかもロッテは残留を認めない形にしたため、追い出したも同然の状態に…

その年、キャプテンとしてチームを牽引し、榎本喜八が持つシーズン最多安打の球団記録を更新した乗りに乗った西岡剛はメジャーリーグ挑戦でポスティング移籍。

 

キャプテンと抑えのエースがいないまま2011年を迎える。

 

2011・2012年

しかも、シーズン途中にサブローも金銭トレードで巨人へ移籍。(しかも、巨人でFAを行使して、2012年には帰ってくる)

 

さすがの西村監督にもどうにもできず、2年連続Bクラスになって退任。
数年の間を空けて、今はオリックスのヘッドコーチとして福良監督を支えてる。

 

2013年~

伊東勤監督が就任。

 

最初のうちは西武からのFAで涌井秀章を獲得したり、デスパイネを呼んできたり、それなりの補強をしたことが実って3位にもなる。

 

ところが、成瀬善久がヤクルトへ移籍したり、デスパイネを残留させることに失敗したりと、伊東監督が頼んだ補強どころか、戦力の維持もしてくれない酷い有様。(サブローも2016年で引退するし)

 

※特にここ20年のロッテがそうなのですが、生え抜きのロッテの人気選手は俊足巧打な人が多く、スラッガーは外国人に頼りがち。(この時点でフロントの戦略ミス)
※伊東勤監督も、色んな選手を育てているけど、どうしてもホームランを量産する人だけは(素質がある人を取ってこないから)育てられないため、助っ人の補強が重要になるのだが…2017年は取った外国人もダメ、元いた外国人は出ていくという大惨事

 

結果、監督最終年にはついに最下位になってしまい、伊東監督は退任することに…。

 

 

まとめとおさらい

2005年以降の

「ロッテは3位以上が取れたら、選手をコストカットするために主力選手を外し、それで勝てなければ監督を解任する」

というかなり、ブラックなことをやり続けてます。

 

形は違えどブラックなことは昔からやっていて、

「オーナーがかわいがってない選手は放出したり、ボーナスを出し渋る」

とか、

「オーナーのせいで試合が中止になったり、逆に現場の判断としてやったことでオーナーと対立したら監督の首が飛ぶ」

とか…そういう事件が昔からあったわけです。

 

ロッテは、巨人軍や西武、阪急の黄金期のように強くなるチャンスはあったし、むしろ巨人や阪急を強くしたのはロッテを追われた人達。

 

違うビジネスの世界でも、社内の政治的な事情を優先して

「ハドソンを買収したのにゲームを作らせなかったコナミのせいで、ハドソンの優秀な人が任天堂に流出して、マリオパーティーができたり、桃太郎電鉄の発売元・販売元が任天堂に変わったりした」
「日本企業がバブル崩壊後に追い出したエンジニア達をサムソンが買って、サムソンが台頭したとか」

実力よりも政治を優先した結果、自分達の有利性を失った話は色々ある。

特に…スポーツは人材あってのものだからこそ、会社経営よりも如実に、オープンに追うことができ、色んな教訓が詰まっているように感じた。

 

現在は、本当にフロントの力が野球チームの力と直結する時代です。

資本力と育成環境が充実したソフトバンクや、地元密着でお金が無い分を育成ノウハウでカバーしてきた広島。

両リーグとも、育てるのも補強するのもうまい球団が、台頭してる。

 

もちろん、個人で成り上がったスーパースターはロッテにもいる、他の球団にもいるが、そういう人が居続けられるかどうかは球団側の力にかかってるし、そのことをもっと野球選手たちには知ってもらった上で、球団選びして欲しい。

 

どうせ野球マニアしか読まないようなものを作ってしまったけど、もし野球マニア以外の人が読んで

「野球ってグランド外の、経営やノウハウの戦いでもあるんだ!」

といいう感動を持っていただけると、書いた甲斐もあるというもの…。

 

 

長い記事ですが、読んでくださってありがとうございました。

 

 

災難な時期にチームを任されることが多いだけで、実は名将の一人だと思うんですよ…。

 

巨人かヤクルトに来年以降、入ってまたやってくれないかな…。

特に、伊東監督が入ると捕手が育つから、伊東監督が去った後でも安定した強さを盛った球団になりうるので。