読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

かくいう私も青二才でね

知ってるか?30まで青二才でいると魔法が使えるようになるんだぜ?

「人は分かり合えないから反対意見を無理して聞く必要はない」と思うようにしてからすごく楽になった

くねくね

僕なんかよりもガチガチなオタク(複数名)と話すことがある。特に…申し合わせしたわけでもなく、彼らの間で一致するのは「人間なんか分かり合えないッスよ」という言い分だ。

 

「分かり合える!分かり合えないのはお前が悪い」

と母親に転校先での高校生活が辛いことを理解してもらえなかったこと、周囲から僕が悪者扱いを受けてそのまま、高校2年生から自分の人生が狂ってしまった僕にとっては青天の霹靂だった。

許すことと許されることの関係性をやめてしまおう

いや、こんなこと言うと、また中川龍(id:noabooon)からサングラス越しに

「君はお母さんのことが大好きなんだね」

とか言われちゃうのかもしれない。彼は偉大な勘違い野郎だから、すごくもっともらしいけどよくよく考えたらそうじゃないんだよ。

たとえ劣っていて合わないものでも、それが親だったり、クラスメイトだったり、先生だったりすると「合わない自分が悪い」と思い込む強迫観念が僕はすごく強いだったから負い目を感じてしまうんだよ。

 

例えば、親が嫌いといえばそれだけで恩知らずだと思われたりする。

例えば、先生が嫌いだと学校や特定の授業がしんどくなる。

 

ここでゲーム感覚で「演じること」を覚える器用さがあれば、その辺の葛藤がなかったのかもしれない。

でも、そういうことが苦手(気配りがズレてたり、自分の欲望や感情に正直すぎる発達障害者であった)であり、中川龍が誕生日プレゼントに贈ってくれた恋愛指南書を読むまで他人が何を考えてるかが正直良くわからなかった。

…他人と違うことが、関西人の間では「いじられキャラ」として居場所を作れた。

だが、東京に来てからは丸々裏目に出て「ストイックな怖い人」「理屈っぽくて難しい人」と思われるせいで、余計に自分が思ってることを言い出しにくくなったし、自分が悪いと思いこむようになった。

 

ブログが友達を作ることに繋がって「半分ぐらい発達障害か、芸術家肌な空間だから僕が普通」という空間に行くまで、楽になれなかった。(高校時代に頭のいい人に囲まれてオタクではなくギークになってれば、もうちょっと楽だったのかもしれないが…真人間になることを強要するような家にいた限りギークになれたと思う?ギークになることを責められてまた悩んでたんじゃないかな?パラレルワールドの僕は)

 

結局のところ、自分の本性に多少目覚めてオタクになってたはいいけど、そのへんで「真人間を文化や知性でぶん殴ってわからせないといけない」みたいな狂気を自分の中に持ち合わせてたわけです。

認めさせないと僕が悪者になると思ってたし、悪者になっちゃいけないと思ってたからオタクの中でも硬めな趣味のものにしか手を出せなかったり、理屈っぽくこじらせた方向に走ってしまったのよね。

 

ギークでもオタクでも本当に自分の世界に生きてる人はその辺がどうでも良くなって、他人(モブ)が自分の見える形にしかならなくなる。

…キルラキルなどの今石洋之作品みたいにモブへの扱いがひどい作品や、ピングドラムなどの幾原邦彦作品みたいにモブが記号や意思・思考を持たないから平気で空気に応じてバカなことを言う人に見えるぐらいまで世界を自分のバイアスで見てる。

 

だいたい、本当にどうでもいい人間から悪く言われること・ダメだと言われることなんて本当はどうでもいいことなんですよ。

なぜか学校の中にいるとその内輪の評価なり、内輪揉めなりに必死になっちゃうんだけど、考えてみたら大多数の人には大人になったら能力や仕事や趣味が違うから会わなくなるし、会わない人とは会話が噛み合わないし、分かり合えなくなっていくんです。

 

この辺のことを僕の周りの、僕なんかよりも若くしてオタクになった人間・結局はギークを選んだ人は経験として学んで、「分かり合えない」と割り切ってる。

ムダなトライアンドエラーをしないことが世界観を狭めることはあるかもしれないけど、その分不純物がなく、「演じる」時にはそこにためらいがない。

 

そこから始まる人生があってもいいと思った途端に急に、腹が立つこと・被害者意識を感じること・怖がることが減って、楽になる。

 

分かり合えないと思うと反対意見を聞くのが楽になる

分かり合えないからしゃべらないってわけじゃないんです。さっきから話に出てくる「中川龍」と言う人も僕は分かり合えないと思って喋ってるし、時々彼が自己啓発本の受け売りみたいなことやリア充アピールし始めるとを本人はそのつもりはなくても、責められてる感じは未だにする。

 

だから、僕よりもオタク寄りな人からは「あんなのと関わるな」みたいな人もいるけど、僕はオタク的じゃない人間だからこそ他人の欲望や感情に対して頭でっかちな理屈を言わない所に信用を置いてたりする。

 

言い方悪いかも知れないけど、俗物なんですよ。ナウい言葉で言えば、リア充

そういう人間が悪気もなくふと思ったことを言う…それも、こう言っちゃアレだが、僕とか齊藤さんとかやたらと頭でっかちに自己弁護の理屈を並べられるような人に葉にものきせず言うのが…新鮮な時もあるんだよね。

 

彼の面白さってそこで、自分も炎上ブロガーだったり、男女問わずメンヘラなヤツにも平気で会うくせに、本質的な属性がリア充だから、自己啓発本に書いてありそうなこととか、オタクがカチンと来ることをサラッとズケズケとできる。

 

そこで、わかりあわなきゃいけないと思いながら彼の話を聞くとかえってよくない。自分と解決方法が合わないから。でも、彼の意見が自分の見えてないところから言ってると思いつつも、彼と同じやり方では解決が難しいと知ってると…彼の話をもうちょっと疑いながら、選びながら聞ける。

 

よく話す相手であっても「人は分かり合えない・違う」と思うと反対意見を無理して聞いて病むこともなきゃ、逆に他人に迎合しようとして自分を責めながら曲げることも減る。

 

逆に話す時の距離感も「言う通りにしようとする・できなきゃいけないと感じてる人」と、「自分は自分が強いから、エゴを持ってなきゃ話がつながっていかない人」とはまた作法が違うから、そこを強く意識するようになった。

 

まぁ、コミュ力が低いからどちらかと言うと「発信」よりも「受信」に役立つ割り切りなんですけどねw

 

 

 ピングドラムのはなししたけどもろ「世界の見え方」なのはユリ熊嵐だったり…

 

 ・関連記事

病人ニートなので「ニート祭り」に行って、「あー彼らの先頭に立って戦わないとダメなんだ」と思った話

分かり合えない相手がいるからこそ、言葉を持たないとイカンのだろうなぁ…という話

 

メルマガやってるよ〜

お先に、青二才します。