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かくいう私も青二才でね

知ってるか?30まで青二才でいると魔法が使えるようになるんだぜ?

完治と現場復帰の間を埋めるのは難しい

躁うつ病・発達障害

最近、躁うつ病について悩んでいることを書く。いや、躁うつ病に限らず「1度休んでブランクがある人」すべてに当てはまる話かもしれない。

 

何に悩んでいるかというと、「自分一人で生活するには困らないぐらい病状は安定したけど、集団生活をするほどの体力ない」「昔には当たり前にできたことが、病とブランクのせいでしんどい。でも、慣らしていく場所がわからず、どうやってペースを取り戻せばいいか悩んでいる」ということだ。

半日拘束されたら次の日に1日寝込んでしまった 

最近、1日どこかに出かけるにしても、家事をこなす、机に座ってパソコンの前で作業をするにしても「一人でやること」についてはこなせるようになった。

 

最近は通勤の訓練も兼ね、午前中に起きてストレッチをしてから喫茶店に丸一日こもってパソコンであれこれ書き物をしたあと、家に帰って片付けとお風呂…という生活が基本になるようにしている。

 

躁うつ病にかかった時期には辛かった早起きが苦ではなくなり、体内時計が狂って生活が不規則になることは減った。体力もそれなりにつけたから引きこもりがち、寝込みな生活も改善しつつあった。

 

だから、「一人で生活する分には困らない体力」はできた。

ただ、難しいのは「集団行動」がすごくできなくなった。

 

人口密度の高いところ、ガチャガチャと騒音がうるさいところ、音がなくても椅子に座ってずっと話を聞いているしかない場所に参加しにくくなってしまった。

 

「参加ができない」わけではない。

実際、1日2日で終わってくれるオフ会や飲み会には出ていくし、突発的な手続きや催し物には参加できる体力はある。

 

…が、寝込む。

少し前のことになるが、1時間以上並んだあと別件でその後に1時間×2の講義を受けに行く機会があったのだが、2時間目途中からは完璧に馬耳東風。聞く気がないわけではなく、頭に入れたものがすぅ〜と抜けていく。

 

あまりにも辛く、その後に立ち寄った飲食店では所持金を確認せずに注文し、足りなくてATMにお金をおろしに行く…という迷惑なドジをやらかしてしまった。

 

半日ぐらいのことなのに、目から光が消えるほど疲れ果ててしまってもう、何が何やら…。

 

これ、自分の趣味にも弊害が出ていて、僕はコミティアみたいな「人ゴミにならないイベント」ならいけるけど、コミケみたいに人ゴミと人口密度から生じる熱気、休憩する場所もない場所にはとても今の体調ではいけない。

 

行ったとしても、1日行って1日半寝込む。という感じになると思う。

そんな僕の言い分を代弁してくれた人がこんなことを書いてる。

 集団生活行動ができるとか、興味のない話を手を止めて効き続けるとか、時間通りに暑さに耐えながらでかけていって帰ってきてからも動き回れる…と言うのは病人にはそれ自体が「大したもんだ」と言えるだけの技能だ。…ということに気づいてない。

 

治るのは嬉しいが、悩みは増えるばかり

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医学的に言えば、普段の生活ができる・痛みや苦しみがほとんどないんだから僕は「かなり治ってる」方に近づいている。

 

が、ここで頭打ちしてる。

 

生活自体を健康的にして、人に合う機会を増やし、少しづつ体調を整えて体力も蓄えてきたが…「社会的な生活(ちゃんと働いて、継続的に同じ量の労働力を供給できる状態)」からは程遠い…。

 

加えて、一人っきりで生活するだけならコミュ力がほぼいらないし、幸いなことに東京ではそれでも生きていけるぐらい都市機能がいい。

が、それゆえにコミュ障とか団体行動自体がダメになってしまったあとにどこからステップアップしていくかに困る。

 

治っていく過程は喜ばしいことがあっても「アレもできなきゃ、コレもできなきゃ」と次々と悩みが増えていく。

全くうまく行ってないわけじゃないし、本当に死にそうだった時に比べると体は楽になった。

 

ただ、自分がいかに何もできなくなったかを知るたびに未来が暗いと思えてしまう。

 

例えば、人混みと音がダメ、時間通りの集団行動がダメならそれらがない仕事を探せば解決できる…こともあるかもしれない。だから生きていく望み自体が絶たれたわけでもない。(幸いなことにネットには集団行動にも人混みにも騒音にも悩まされていない仕事をしている人がたくさんいるし…)

 

だけど、音がダメなのは致命的。

特に躁うつ病になってから子どもの泣き声や子どもが行き交うフードコートがダメになってしまい「僕は子育てができない体になってしまった」と悩んでいる。

 

子どものうんちなら…という理論と同じで自分の子どもの泣き声は騒音だと思わないで済むのかもしれないが、人の子どもの泣き声は時々殴りつけたくなるほどうるさく感じる。笑ってごまかすように努めてるが、笑ってごまかさないとやっていけないほどの心と体のもろさに自己嫌悪すら覚える。

 

子どもを作るかどうかなんて個人の自由だし、いないからといって別に困るものではない。

 

だが、もしもだ!

生きていくうえでの可能性なんてものは実はとっくの昔に絶たれてて、でもそのくせに子どもの頃に「子どもを育てなさい」と人に言われた記憶や社会正義・道徳として求められてることだけは覚えているとしたら…。

 

それを病気の中で治せる部分を直していってどうしても治らない部分のせいで可能性が絶たれているとしたら…。

 

そう考えるとちょっと辛いし、最近そう考えてしまう自分がいて途方に暮れている。

病気を改善しても、病気と社会が求めてること、親や学校の先生がひととしてぼくにもとめたこととは隔たりがあることに気づいていくのが…正直憂鬱に感じる。

 

それらの記憶や強迫観念から自由になって自分の体が治り、力をつけていくことをもっと素直に喜べるにはどうしたらいいのかねぇ…。いやはや悩むところだ。

 

 

 ドロップアウトすると復帰が大変だから、元気なうちからしっかりケアやチェックをしておきたいものだ…。

 

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