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かくいう私も青二才でね

知ってるか?30まで青二才でいると魔法が使えるようになるんだぜ?

英語が必要だからやれと漠然と言われても…実感が無いんだよなぁ~


英語教育について語るが、僕は英語について大学生の時に時事ネタを英文で読むまで「あー僕は英語ができないんじゃなくて、英文法…もっと言えば受験英語ができなかったんだ」

ということに気づかずに英語嫌いになっていた。

 

似たような体験としては、自分がブログのアクセス数を取ってブログが有名になるほど「もっとこうなりたい」「もっとああなりたい」「アレが必要だから、教えてくれ」という話を自分にも課すし、人にもするようになった。

 

できない時は自分に対して足りないものや必要なこと、もっとどうなりたいかが漠然としていたが、むしろアクセス数が安定して取れるようになってから

「毎日ブログを書く体力を付けなきゃ」

「時事ネタに食いつくだけじゃ濃ゆい記事が書けないから本を読まなきゃ」

「自分が健康そうで、美味しい物食べる幸せな生活が一番ネタになるから自分の生活の質をあげて、ブログに反映しよう。」

とか具体的にしたいことが思いつくようになった。

 

学校の授業についてもできるやつとできない奴の差はそこにある。

できるやつほど自分の足りないことは理解してて、逆にできない奴は「何がわからないかすらわからないやつ」が実は一番深刻。

 

それでも、その教員や趣味をきっかけに好きになることもあるのだが、教員まで嫌いだし、学校も嫌いで苦痛しかない…となると悲惨だ。

しかも、勉強ができないという結果から「あいつは努力してこなかった」という言い方をする政治家や経営者までいるからズレた意見が世間を闊歩してる。

「何かの役に立つ」で人はがんばれないけど…

昔の人は「好きこそものの上手なれ」と言ったが、これが全てなのよね…。

例えば、面白い先生の授業や授業後の話で盛り上がりたい。

例えば、自分の得意なことのために必要だったら、やるようになるとか…。 

そもそも、学校の成績とか他人との競争がどうでもよく地図帳やウィキペディアとにらめっこしながら面白いものを積極的に拾い上げていくのが好きな人間だったり…。

 

人ががんばれるのはどちらかと言うとそんなことだ。

フワフワと「立派な大人に」「進学できない」とか何とか言われても言ってる意味がよくわからないわけだ。

ほとんどウソに近いのはさとい子どもなら高校受験の倍率を見て「進学できねーほど頭悪いのはせいぜい10人に一人ぐらいじゃねーか」と気づくだろうし、ニュース見てたら大学全入時代って言葉を聞くこともあるだろう。

 

でも、薄々には「人間なんて目の前のことでしかやる気を出さない生き物」ということはわかってるらしく、学校と親が「内申点に響く」と連呼できるようなシステムを作って子どもを束縛するようになったわけだが…内申点も偏差値も「母集団の中でのレベル」でしかない。

 

川崎のホームレスが当たり前に空き缶を回収しに来る地域と、校門圧死事件を起こしたり、近所にコンビニ作るだけで物議を醸すほど子どもを規則に当てはめる神戸市の新興のニュータウンを含んだ地域とじゃ母集団が違いすぎる。

 

僕は絶対の自信を持って断言できるのは高校受験における偏差値50でも全然違う。

内申点だって、僕の学校はあまりにも内申点競争が熾烈すぎて、偏差値低い学校や内申点自体がダメで私学に進学したヤツが「実は俺、頭良かった」と気づいてクラスや学校のトップクラスに食い込むことがざらにあった。

 

…まぁ、僕もどちらかと言えばそうだから偏差値や内申点というシステムの矛盾を知った。偏差値・内申点重視の傾向の弊害も。

弊害が出る種類の人は

1、そもそも勉強や学校が嫌い/いい成績が取れなくて投げありな人

2、地域全体が勉強熱心で、激戦区ゆえに自分がバカだと思い込むようになった人

3、地域全体が頭悪くて、偶然いいとこに進学できちゃって勉強漬けにされた人

 

3は中学入試の「発達が早くて努力しなくても勉強ができた人」と、大学入試の「指定校推薦でそれなりの偏差値の大学に進学できたけど、学力が追いつかないやつ」も含む。

3はどっかで酷い目にあえばいいたなぼたくんなので、地位にふさわしい人間になれなかった以上僕は何も同情しない。期待はするし、期待ゆえにイヤミは言うけど。

 

問題は1と2だよ。システムに嫌われてるか、相手にされてない以上「目の前で見下されても勉強する動機」が必要になる。

よく偏差値や学校の勝ち負けを絶対視する人がいるが、そいつらはきっと僕が今書いたことを知らないか、知った上で「一人一人を見る余裕なんかない」と自分に言い訳しながら、見下してる人だ。

 

評価基準がバカだと思うが、でも、僕らはそのバカな評価基準に見下されてもその自分の位置で生きていかないといけない。

 

やっと本題の英語教育の話

その時にやる気を出せるのが「勉強が必要だと感じる理由」だ。

ところが、現状の学校は引っ張りだしてくれない。それどころか、受験英語と使われてる英語を分離して英語嫌いにしてみたり、美術は自由にやらせるとか言いながら理屈を教えてくれないから気づいたら嫌いになってる…ということが各科目にざらにある。

 

僕が英語に興味がわいたのは大学生になって授業で条文やニュースを訳す授業が面白くなってからだし、イラストに極端なハードルの高さ・得体の知れない難しさを和らいだのも萌え絵を人体の構造に合わせて解析した本を読んでからだ。

 

本当は英語なんてとっかかりの多い分野のはずなんだ。

戸田奈津子の誤訳を解析して「字幕で見るよりも、英語がわかった上で映画見るほうが絶対楽しいよ」とか、YouTubeの反応ひろって「ね、中学高校の英語で訳せるでしょ?」とか。(ニコ動のボカロ曲やネタ動画の海外の反応を訳すだけでも何かきっかけを掴む人がいそうだけど…)

時事ネタ好きの僕なら「日本のマスコミよりもCNNニュース訳したほうがずっとためになる」といわれたらもっとマジになってたかもしれないが、それを言われたのは震災後からだからなぁ…。あと10年遅く生まれたかった。

 

でも、現状は一番ダメなことをやってる。

目の青い外人呼んで、助け舟も出さずに「じゃあ、がんばって」じゃ英語なんて投げつけられたパイでしかない。食べれば美味しいのに、顔に付けば不快感しかないパイでしかない!

 

僕が理科や社会科が好きになったり、数学に興味がわいたのは投げつけられるパイをキャッチして美味しく食べる方法を日常生活でなんとなく理解したからで、英語や美術の授業からはそれを汲み取ることができなかったから嫌いになった。

 

ブログに打ち込んでいるうちに好きなことを補填するためなら嫌な勉強・トレーニングだってかなり我慢できることに気づいた今だから僕は言いたい。

 

とりあえず、学校や授業が嫌いになりそうなレベルの人は「全部嫌い」から1つでも得意になれそうなものから始めようや。数学が好きでも読解力が必要になるし、美術が好きでも図形的なセンスや作品を理解するための社会背景や文脈を読み取る力は必要になるし…1つのことに突き抜けたいと思ってもどこかで自分なりの取っ掛かりを見つけて色んな事をできるようになりたくなるし、できるようになる。

 

逆に、できない科目に悩んでる人は自分なりの取っ掛かり方…あくまで得意な科目/趣味のおかずとして使える方法を見つけてやるようにすべきじゃないかな?

ネタ好き・時事ネタ好きの僕が国語が苦手だったのを克服する時に本を読んだ時に選んだのも歴史系やラノベ、あとは評論系やネタ系の短編小説から徐々に読めるようになっていって、それは国語の授業だったら絶対扱われないものだし。

 

美術や英語について「これ面白くね?」と思い始めたのも自分の得意分野をもっと知れるかもしれないという可能性からだし。

 

結果とか他人の評価とは別の自分の「好き」「やりたい」がないと勉強なんて続かないし、むしろ学校を出てから勉強し続ける・結果を出したいと思ったらそっちの方が大事。

 

でも、このブログは時間がある中学生が読んでくれなくて、大学の授業にまじめに出てれば気づき始める大学生ぐらいしか読んでくれないんだよねぇ…。悩ましい

 

 

 なんか受験勉強のカテゴリーなんですよね…。英語と言う学問じゃなくて、受験の先ではあんまり役に立たなそうな感じしかしない勉強というかなんというか…