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かくいう私も青二才でね

知ってるか?30まで青二才でいると魔法が使えるようになるんだぜ?

なぜそれなりの文字数が書ける人でも小説だけは書けないのか?


昨日、人で話した内容で面白かった話を備忘録として残す。

 

結論から言うと「僕が小説や物語を書こうとすると【観察の成果物】みたいになり、物語として面白いものができない」という相談を小説側に明るい人に持ちかけた。

映画で言えば、イノセンスなどの押井守作品。ジブリならば「借りぐらしのアリエッティ」などにあるような観察や知識の羅列。それがズルズルと続く書き方に陥る。それはそれで技術だが…面白くならない。

 

興味深いけど、どこかに発表してウケるようなエンタメにはならない。

 

もっと突き詰めた言い方をすれば、僕はエヴァなどでお馴染みのガイナックス・TRIGGER作品が好きだ。

小説やゲームを作るなら彼らのような「考える事すら放棄させて作中の理由がよくわからないものを視聴者に受け入れさせるもの」が作りたい…どうデキてるか想像もつかない。

 

そのモヤモヤに彼は言う。

「それはブログと物語の技術が真逆だからです」

…小説書いたことあり、自分の書いたものがちっとも面白く無い・世に出るものと似ても似つかない…そんな経験をした人には是非読んでほしい。

そもそもライティング技術とはなんぞや

まずは書き物全般の基本的な技術の話から。

物語やろうが、ブログや評論をやろうが、次の3つの能力が何かを書くときには必要になる。

文章力の3大要素

構成力…プロット、起承転結、校正。全体を通した読みやすさや理解しやすさ。長文を書ききる体力・つむぐ力。

キャラ…媒体に問わず、共通してるのは観察眼。ブログなどキャラが自分の場合は、自分自身の文体や知識など。物語の場合は作品研究。

演出…より気持ちや言い分を伝わりやすくするために、表現の解像度(具体性)を上げる技術

  

構成力とキャラはジャンルを問わず、共通点が多い。

だから、文章を書くだけの体力がない・第三者を意識して文章を書く習慣がないという人はブログで訓練することは効果的だと考えている。

 

小説を一人で書く・友達数人にしか見せない人にありがちな失敗は「世界観が狭いがゆえに駄サイクルにハマったり、自分がより高いレベルに行くための情報や意識、交流の場に触れにくい」ことだ。

いきなり小説をやり始めるとつけにくい力を補填する意味で、リアルタイムで反応が来るブログやTwitterは役に立つ。

Web媒体で小説の感想をもらえる人はごく一部。即売会で出しても小説のブース・イベントは絵が入ってるメディアに比べると立ち読みで購入を判断しにくい。

だから、交流も増えていかず、周りが辛辣なオタクだらけか過、身内でのぬるま湯の二択になりがちだ。

 

だが、演出だけは違う。

ブログ・評論・エッセイなど「自分の視点を綴る媒体」と、小説・脚本・シナリオなど「世界観やキャラ・事象など自分が設計するもの」では演出の発想が根本的に逆だ。

そのため、ライティング技術の情報や慣れ、切磋琢磨することとは根本的に違う「物語作りならではの考え方」が必要となる。

  

 ブログは圧縮・物語は拡張

演出の違いを一言で表すと「圧縮と拡張」となる。

 

例えば、物語を一言でまとめると実はすごくしょーもない話であり、身も蓋もないことで「なんでそんなことを何ページも、映像なら何分も、回想や映像演出まで入れて四の五の言うの?」という内容であることがしばしばある。

 

落ち着いて一言でその話をまとめてみると恐ろしく中身がないこと…。でも、それは作り方として至極正しいのだ。

「そんなこと」を世界観からキャラの名前、ストーリー展開からメタファーまでありとあらゆる方向にふくらませ何百ページにするのが物語だ

一方、自分の視点で綴る書き物は複雑なことを「要するに」にしぼりこんでいくのがブログや評論の手法。

 

日常、ニュース、感情…これらはもう世界にすでにあり、それらが猥雑に絡まったものに「軸」を示すのが論ずるということがブログの手法だ!

 

この構造の違いをきっちり理解できないまま物語を作ると、物語ではなく「観察や考察の成果物」が生まれる。

 

僕は、典型的にブログを作る考え方に慣れすぎているから物語の手法自体自体に「なんでこんなに中身がないの?」と否定的に見てしまう。

物語の抽象的なものを省いたり、中身があるように見せたいがために要素を増やしすぎてしまう。

 

結果、1つのテーマに特化した表現ができないばかりか、登場人物の感情や目標を抽象化させ作品の要素(デザインや、情景)に反映させる力が恐ろしく低くなる。

 辛辣に言えば、猥雑とした人間観察の成果のような「何か」ができあがる。物語というほど文学的な隠喩、仮想の世界観が盛り込めないまま完結してしまう。

 

筋の通りすぎる物語はつまらない

物語の技法となじまない人に陥りがちな失敗はまだある。

それは「物語や現象…つまりは演出をわかりやすくしようとするあまり、わかりすぎて(予想外の遊びを盛り込めず)面白くない物ができる」ことだ。

 

物語の演出をより詳しく語る上で大事なことは「物語はわかり過ぎたらいけない」ことだ。もちろんキャラの気持ちや願いが具現化して起こる表現・できごと・デザインには理由はある。

しかし、パッと見わからない・すぐには説明がないぐらいのモノを作るぐらいでないといけない。そうでないと読者が前のめりになって楽しむチャンスを失い、筆者も筆者で説明文だらけの間延びした作品ができあがる。

 

具体例を一つ。フリーゲームの名作にはボスキャラがキャラクターの心のイメージを投影して形になった場合が多い。最も顕著な例がキャラだ。

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「なんじゃこれ?」としか言いようのないデザインだが、なんとこれは白龍だそうだ。しかもなんでこれが白龍かという説明は登場時にないのだ!

 

書籍化もされた有名なゲームのボスだが、龍を見たことないキャラが想像した「妄想」がボスになったから、よくある「でっかいトカゲ」のような龍は出てこない。

 

見落としがちなことだが、よく考えると龍なんては実在しない以上、こんなデザインでも良い!

何よりも重要な事は「登場人物が連想したことで生まれた敵」であることをわかるようにするためにこのデザインなのだ。

 

「気持ちや感情の解像度を上げることで表現を生み出す」のは物語でもブログでも同じ。

だが、大きく違うのは解像度を上げたものを動作や仕草、痛みや自分の状態のみならず、物語の場合は世界観やキャラクター、その時に起きるできごとやキャラクターの持ってる所持品として考えて細かに配置しないといけないことにある

 

それも、できるだけかっこよく、わからなくてもいいから伝わる(リアクションを取りたくなる)ように!

 

評論やブログのキャラは自分だ。だから、自分の見えたこと・考えてることをより高い解像度で人に説明したりする技術だ!

一方、小説などの物語のキャラはその世界の登場人物であり、自分は外から組み立ててあげる人だ。だから、悲しいとか憂鬱と言う気持ちをキャラが描いたら、天気を変え、表情を曇らせ、カラスや水が落ちる音のような時間がゆっくりと不吉に流れていくようなものを手を加えてこそと表現になる。

 

物語は物語という世界をデザインするモノで、誰かの目ではなくキャラの目に映る・迫る全部を考えるべきだ。それもキャラの感情や願いを起因にしてね。

こんな視点を持って作品を見た上で、自分が書いてる時にキャラの感情を把握したからこそできる表現できる人こそ物語をかける。

 

何でもそうだが、視点の違い・メディアの違い・他人のことだと気づくのに自分がやってるとどうして他人のようにならないかが気づけずに迷い込むことに無自覚だと「できるつもりが、やってみると案外できない」のだ。

 

それを思い知らされた面白い内容だったので、この内容は残しておくことにした。

 

 

ハリウッド脚本術―プロになるためのワークショップ101  

 視点を増やす意味ではトライ・アンド・エラーして詰まった時に勉強したり、ノウハウ習った人に聞いてみると面白いですよね。この話にかぎらずですが。 

 

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