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かくいう私も青二才でね

知ってるか?30まで青二才でいると魔法が使えるようになるんだぜ?

ゆとりと自分らしさなんぞ、結局は「若者らしさ」の言い換えでしょ

教育論

ゆとり教育世代の僕の時代にはやれ「ゆとり」だ、やれ「自分らしさ」だというフレーズで子どもを伸び伸びと育てることがいい事のように言われてきた。

 

しかし、これについてツイッターで人と議論してみるに、「親や先生は言うほど子どもの興味や関心、自分らしさに寛大だったか?」と疑うようになったので、一言書いてみたい。

  •  理想はふんわりと「好青年でハンサム」なんでしょ?

身も蓋もない言い方かもしれないけど、例えば数学オリンピックに出るほど数学がうまくなったり、棋士になるほどの腕前であったり、マンガが書けるほど…というような事であっても、その価値が親や先生にわかって、その道を支援されるかどうかからそいつの人生の勝負は決まってしまう…と言っても過言じゃない。

 

なんとなく、「若者らしさ」とか「決められたレール」から離れた趣味・特技を選んでみたが、「教育現場の言うゆとり」や「親や周囲の大人が言う自分らしさ」に変わった趣味・まだマイナーな競技にのめり込む人間を認める包容力はあるのか?

 

私から言わせてもらえば、「ない」と思う。

たまたま、僕が「度量のない家に生まれた」か、「才能に目覚めることなくおとなになったせいで親を説得できなかった」か、あるいは「将来の夢が高校・大学時代に形成されたからはじめから親なんかか関係無かった」いうことももちろん考えられる。

 

でも、だからといって親や先生が周囲の反対や一般常識からかけ離れた(判断基準が見つからない)芸を見つめるほど寛大だとも思えず、また学校や子ども達の「立場」に偏見や狭苦しさがなければ「スクール・カースト」などと呼ばれる虐げられている意識、認められない自覚なんか誰も持っていないわけだ。

 

子どもに「スクール・カースト」という社会性があるように、親にも親なりに「外で自慢したい子ども像」みたいなものがある。非常にくだらない「閉鎖空間」だが、そこでの評判や一時的な評価で子どもの可能性を潰したり、起こったりする。

 

教育制度・政治的判断と言ったマクロな問題ではぼやかした言い方をし、見て見ぬふりされている。しかし、ミクロなところからみた「自分らしさ」「個性」「ゆとり」の追求は結局はその集団・人間の意識が変わらなければ、何も変えられないのだ。

 想像力のない人間は目の前で自慢できる好青年を目指すか、その理想像を押し付けるばかりでゆとりがあっても個性も活かせず、自分らしさも追求できない。

 

 

だから教育制度として実践しても、個性的になったり、変わった特技に特化した人間ができあがったり、柔軟な思考力を持った人間ができていくか?といえば、そんなことはない。

「自分の頭で考えろ」というほど相手を信用もしていなければ、考えた結果として返ってくる答えはある程度予定の上に成り立っていて本当にとんでもないアイデアなんて誰一人期待してない。

 

例えるなら、「あなたに任せる」と言いながら酒宴や仕事にケチを付ける同僚/上司のような人が残念ながら教師であり、親なのだ。

子どもに「反抗期になれ」と言わんばかりの記事だが、僕はそれに気づいてげんなりして欲しいだけだ。

僕は良く言えば純朴に、悪く言えばバカに育てられたため長年母親が深層心理では「慶應ボーイになってほしい」と思いながら、「自由に育てている」というアリバイ作りをして自分に言い訳していたことに気づかなかった。

 

「伸び伸び」とか「個性」とか「自分らしさ」というのは子どもに対して「私はそうさせてやった」というアリバイ作りであり、本当はそんなものは監督者の想像力程度しかない。

 

いや、もうちょっと本音を言えば、ゆるふわインテリイケメンの慶應ボーイになってほしいとか思うようになる嫌な生き物が母親という生き物だ。

関東に引っ越してから、母親のバイト先に慶應ボーイが来てからというもの、会ったこともないのに「慶應のお兄ちゃんのようになれ」と言われるようになった理不尽な現象をみて「ああ、母親とは自由だ、自分らしさだと言いながら最後は自分が鼻高々に自慢できる好青年を期待しているのか…」と僕は一生治らない反抗期に入ったものだ。

 

無償の愛なんか求めちゃいないが、母性・母親らしさを僕が女性に求めたり、自分自身のエゴを人に押し付けてる自覚が品性ある形で体現できる人を求めるようになったよ。母親が「慶應のお兄ちゃん」と言い出した時に「この人は自分自身の深層心理にも向き合えてなかったのか」というふうに嫌気が差したので

 

結局は科学立国もなでしこジャパンも漫画の神様も色眼鏡で見られてもなおそれをやりぬいたから達成したり、その特技を伸ばす上で金銭的・心理的に支えになってくれた「誰か」がいたから成功できたんだ。

 

個性だの、ゆとりだのとほざく人はまずは自分の想像力と見聞を広げて、新しいこと、変わったことをしている人を怒らずに見守る/応援するようにしたらどうだ?

 

世の中は慶應のお兄ちゃんだけが必要なわけじゃないんだぜ?

 

 

 

何度も言うが、学歴も選択肢だし、キャラクターもまた正解なんぞないよ。

本来、違うものを同じであるべきかのように言われることそのものが心外だ