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かくいう私も青二才でね

知ってるか?30まで青二才でいると魔法が使えるようになるんだぜ?

無価値ではないが、多くの人がありがたがるほど学びに価値があると思えない


あ、誤解しないでね。「学ばなくていい」という気もない。「学んだことは役に立たない」という気もない。

 

ただ、「学ばない人間が淘汰されていく」ことは幻想だし、そうである以上学びよりもその場その場で大事になってしまうものが…悲しいけどある。

結局はどんな仕事も人間同士で売買し、物の価値を決めるのも人の価値を決めるのも人間になってしまう。学びや知恵…ましてや真理でもない。だからこそ、論理的かつ学問上は間違えた判断でも、人間同士なら通ってしまう。それを学んだ人間から見て「理不尽だ」と思うこともある。また、お金や人間関係のことばかり言って仕事はちゃんとやらない「ずるいやつだ」と感じることもある。

 

学びへのこだわり、情熱をひどくこじらせてしまうと理不尽を起こした張本人や、ずるい人間を見下し始めるようになってしまう。(特に社会に出てお金が関わるシーンだとね)

 

ゆえに、彼らは学びの位置づけを見なおした方がいいのではないか?と僕は感じる。

残酷な言い方をすれば、「貨幣化に失敗している時点では学びにはそれ相応の価値しかなくて、結局は誰か別の人間に学びの価値を認めさせる人間でないと、学びなんてなんの価値ももたない」と必死に学んでいる人間を見放すべきか…

 

色んな物に対して言ってる。

まずは、この記事を書くきっかけになった学習を止めた豚と働けるほど人生は長くない  学習を止めた豚と働けるほど人生は長くない - 銀の人のメモ帳という記事に。

次に、自分の周りで「もっと勉強しよう」とがんばってる大学生のフォロワーさんにも、最近読んでいる哲学者のショーペンハウアーの高慢ちきな態度にも…そして、何より自分に対して。

  •  1つの到達点でしかないし…

世の中にはまず「点数が付けられる学問」と「点数が付けにくい(付けられなくはないけど、みんなが納得行くものにならない)学問」が存在する。

 

まず、前者の話から。

資格のような実用的なものから、受験のような全然実用的でない学問まで「成績の付けられる学問」はそれを学ぶことよりもその結果が問われてることが多い。学んだことが役に立つかどうかよりも「どれだけ大学に入るため・資格をとるためにがんばったか」という程度のものでしかない。

 

雑な言い方をすれば、会社が英語化したり、管理職にTOEICなどを課すような会社はなんで英会話や業務で使う文書を読めるための英語を優先的に学ばせない?TOEICをバカにする気はないが、仕事のために使う英語があるならそれをそのまま教える研修なり、より実践的な訓練をしてくれる教育機関を通せばいい。

でも、なんで杓子定規な基準で点数をとれた・取れないという話にする?

 

多くの人、一般的に学ぶことが好きでも嫌いでもない連中の学問に対する位置づけとはその程度にすぎない!

「どれだけそのある期間で努力ができるか」「本番でどれほど力を発揮して結果を出せるか」という度胸試しで、ゲームで、…順位をつけるためのわかりやすさだ。

 

「将来に必要だ」「出世に必要だ」と言われ、やっとこさっとこ勉強し始める。

勉强することそのものを楽しんだり、より実用的にしようとかということはあまり考えない。

評価されることや必要性、あるいは努力や結果でその人の力量を測るためのものさしとしか考えてないし、そういった勉強しか知らない。

 

試験に通った人・資格を持ってる人は確かにその資格のための努力はしている。試験をパスしていない人よりも習得するためのカンが良いことが予想される…。でも、勉強だけでは客観的に評価しにくい「個別の現場」で力を発揮できない。

 

客観的な試験結果や資格が全く使えないわけじゃない。でも、その次のステップを用意したり、自分自身がその場その場で勉強をしないと試験の勉強なんて役に立たない。

 

  • 主観的で点数化しにくい勉強の大事さ

自分から勉強をしない人の多くはそもそも、勉強への認識が大きくズレている。ズレているからこそ「勉強なんて試験の時にやるもの」「試験をパスした人を登用すれば、会社を英語化できる/優秀な人材が入ってくる」と言いたげな行動を取る。

 

そういう人にもっと自分から勉強させたい…勉強の大事さを伝えるためにはどう説明したらよいか?どういうふうに対比をして説明していけばいいか?

 

仕事の現場だとこれが仕事によってわかりにくくなってしまうため、多くの人が見たことある光景で説明したい。

 

勉強しない大学生と、勉强する大学生の違いとはなんだろう?

勉強しない学生でも手際よく良い成績を取る人もいるし、勉强する学生でも成績自体はあまり良くない人がいる。資格・試験の勉強をするわけでも、大学院に行くわけでもないのに、図書館によくいる人・ゼミの勉強を大事にする人もいる。

 

仕事や趣味に於ける勉強はこの差に近い。

「自分で課題を見つけて解決するまでのプロセスをやり遂げる人」か、必要な時にしか努力しないか…という差だ。考える習慣・調べる/見つけるプロセスを繰り返すことに大学の勉強は意味がある。実際、優秀な大学ほど休みが多く、生徒が自分から動いているケースが多い。課題なんか与えなくても設備と機会があれば、考えて動いてる…という信用もあり、実際にそういう人も多くいるからだ。

 

社会に出たとて同じことだ。上から与えられたもの以上の「何か」をやってのける人が結局は一目置かれる。その1つに「学び」は大きな役に立つ。特に、自分で調べたり、問題を見つけたりする習慣が身についていて「試験以外のためにも勉強できる人」にはチャンスが巡ってくることがある。

 

それ「も」確かだ。

人間同士の仕事だから、学んでない人間や試験勉強など評価の対象になる勉強だけをのらりくらりとかわしながらやっている人にも「人間関係さえ良好なら」勉強はおまけでしかないのかもしれない。

 

人間同士だからこちらがどれだけ勉強すること・あるいは勉强する習慣から得たことで仕事に成果を出したり、工夫を加えても…評価する人間に見向きもされないのではどうしようもない。積み上げているものを片っ端からつぶしにかかる同僚がいては学びなんかなんの意味もない!

 

会社の中でアレコレと変えてきたことをぶっ潰されたり、全体の不利益になることを「変えませんか」と出した提案を横槍入れて潰された経験から言ってます。

評価してくれる人間がいなかったわけではない。ないからこそ僕の案が通ることもあったし、それで得た信用もないわけじゃない!

 

でも、結局は人間同士の仕事だから、そういう細やかな提案や気付きよりも声のでかいやつが勝ってしまうことはある。

これ、僕の体験であると同時に、僕以外の人も色んな所で「なんだこれ」という会社のパワーバランスに苦しめられて愚痴ってる話。

 

教訓であり、ちょっと会社で働くことへの諦めとして、「学びなんてものは1つの武器に過ぎなくて、それを評価する人間がいたり、評価させるだけの圧倒的な量を費やさないと活かされない」ということを語りたくなりました。

「自分はこれだけやってる」と言って、学ばない人・雑で横暴な人を見下す傾向がありますけど、そこからして間違ってるんです。見下すならあと100倍やるか、認めさせるだけのコミュ力を付けないと、自分の満足するポジションとパフォーマンスは得られないのです。

 

まぁ、それに疲れてうつ病になったんですけど(T_T)

 

 

読書について 他二篇 (岩波文庫)  

 

 ちらっと触れた本。最近読んでます