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かくいう私も青二才でね

知ってるか?30まで青二才でいると魔法が使えるようになるんだぜ?

僕は読書論が嫌い~いつから読書は読破数を争うスポーツになったの?~


昨日ウォッチした記事に僕も言いたいことができたから読書についてああだこうだという話をさせてもらう。

 

読書家の俺が思う読書の弊害 読書家の俺が思う読書の弊害 

たくさん本を読めとか、100冊読んだとかいう言葉が並んでいるが…そんなことを目的に本を読む人・本を読めと命令してくる人が子どもの頃は大嫌いだった。

 

僕自身、本を読みたいと思い始めたのは「国語の成績が良くなりたい」という不順な動機だが、読書量を重ねていくきっかけになったのは友人から「文体がキレイになった」と言われたことがきっかけだ。

それまでは、勉強の延長で「これをやらないと勉強の成績が上がらない」と後ろ向きな動機でやっていた。しかし、友人の一言をきっかけに僕は本を読む姿勢を「自分が必要なもの・欲しい物を読む」ように変えていった。

 

本でもウェブ媒体でも読みたいと感じるものはガツガツ読むようになり、その蓄積をいちいちメモするようなことはしなくなった。読書そのものが苦行でもなければ、行うべき善行だという考え方もしなくなった。

  •  それらは元々、価値もないものだと気づけば?

読書なんて知りたいこと・学びたいことがある/読書自体を楽しみたいなど…方向性のある動機を満たす行為だ。

「なんとなくそこに乗っかっていけば学校が卒業できる」「なんとなくその時間にその場所で仕事らしきことをしていれば給料がもらえる」という生産性のある行為でもなければ、目的意識なしで何かしらの結果に結びつくものでもない。

もっと言えば、本を読んだとしても経験を活かすも殺すも自分次第で、誰かが褒めてくれる・自分自身が成長したと感じるなど本は保証もしない。

 

「誰か(評価)のためにやるべき」、損得勘定の末に「本を読んだほうがいい」とか思うなら本を読む分だけ仕事するか、直接的に給料を上げてくれる資格の勉強でもやった方がいい。

 

「本を何冊読んだと言う人はなぜ良著を挙げない?周りからの評価が変わったと言われないか?読んだことを表明しても尊敬されない?」この辺りを考えればわかる話だ。

 

本を読む事自体が目的になり、その行為から結果を出すこと・日常生活に活用とする努力なんかそれほどしてない!

 

読んだ本が稚拙だ、量が少ないという指摘をしている人もいるが…それも違う!本なんて知的水準や目的意識次第で「何がほしい」「何がいいもの」という選択は変わる。その人にとって価値があって100冊読んだものが新書であれ、ライトノベルあれ、何かしらの結果に結びついたなら「そんな物を読んでるから稚拙なのだ」と言って何もしていない人よりは幾分かの価値がある。

 

でも、本自体に価値はない。だから、何冊読んだと自慢する人も「〇〇文庫を読んでないなんて」という人もどちらもズレてる。読書そのものがより高度なものをたくさん読むスポーツでもないし、それを読んだから誰かに表彰されたり、資格が受容できるものでもない。

 

問題を解決したり、目的を叶えたり、自分自身を幸せにしたり…生活や日常につなげるための「手段」であって、目的でもなければ自慢することでもない。

 

  • ただ生活の一部として活字を読めばいいだけ

僕は読書論的なものが嫌いだ。

 

まず、「読書はいいものであり、みんなそれをすべきなのだ」という押し付けがましさが嫌いだ。

先程も述べたとおり、何かしら自分の人生に対して「どのような影響を及ぼしたい」というイメージもなく「何冊読んだ」と自慢したいだけの読書なんてなんの意味もない。

 

たちが悪い人になれば、「読書させるのはいいことだ」と言ってしつこくおすすめの本を薦めてくる人間がいる。そして、悲しいことに僕の母はそうだった。

小中学校の時に何百回とハックルベリー・フィンを薦められ、一度だけアリバイ作り程度に手を付けたが…あの時ほど読書が苦痛に思えたことがなかった。以後、一生ハックルだけは読まないと決めて生きてきた。

余談だが、「ハックルベリーに会いに行く」というさる有名なブログタイトルを見た時、ブログについて何も知らなかったが、タイトルだけで「イカレタ野郎だ」と思った。(しかも、本当にイカレタ野郎だったのですけどね…)

 

当然、薦めてくれた本が噛み合えば、人間関係を良好にする場合もある。でも、趣味が合わない本をしつこく薦めてくる人間と出逢えば、それは地獄でしかない。

映画やスポーツのような「娯楽」と違って、「読書はいいことだ」「この本は絶対にあなたのためになる」というある種の信仰は人間関係や、それを良好に保つ配慮さえも破壊することがあるため…僕は読書が素晴らしいと言う思い込みから捨てて欲しいと願う。

 

次に、「読書はいいことだ」という思い込みが、活字を読むことへのハードルを上げていることが僕にはけしからんと感じる。

どういう本を読めばいい、どういう本がいい本だということを読書が好きな人は高尚ぶって取り上げすぎることが次世代の文化を虐げている。

 

典型的なのは新書やライトノベルを悪くいう連中だが、それはデビューするツールや読見やすさを出すためのフォーマットに過ぎない。ラノベ・新書だから文学的に劣るものでもなければ、逆もしかりだ。

 

思い込みを捨てて、自由に本を取ればいい。読書そのものには価値がないことを自覚していることが一番重要だ。価値なんか自分が活かす、あるいは見出すものであって、本や知識自体を誇ること・読んだ事実を自慢することになんの意味もない。

 

ただ本を読むことで、自分の思ってること考えてることを整理したり、全く考えもしなかった提案がもらえたりする「機会」があるだけだ。本の内容やジャンルに問わず、それを自分の生活や技能・あるいは癒やしとして価値を付けるための「道具と選択」だ。

だからこそ、強いられて義務感で読むべきものではない。読書をしたい理由や、本を読みたい願望があれば、それが美徳であれ悪徳であれ、勝手に本を読むものだと僕は考える。それこそが読書ではないのか?

 

それを読書はいいものか、読書はすべきか、どういった本が素晴らしいか…どうだっていいよ!

本を通じて良い習慣を見つけようが、賢くなろうが、心温まろうが、それが日常生活の中で生きていく自分の糧にならない・糧にしようと機会を探さなきゃなんの価値もなく、そのために費やした時間はムダで、邪魔。

 

だから、読書そのものが素晴らしいとか、幾つ本を読んだから偉いなんて思い込みを捨てる所から始めることを僕は薦めたい。

 

ジャンクだと言われようが、俗物的だと言われようが自分が読みたいと思う本を読めばいいのでは?読書という行為に価値を見出すのは自分だ!人が決めた価値はその人の主観と価値観でしかない。自分で選んだ本を自分が好きなだけ読んで、必要ならば、読書したこと自体に自分の中で価値見出していけばいい。

 

人に自慢するためのことでもないし、人がいいというものを読んで尊敬されるためのものでもないんだ。

 

 読書について 他二篇 (岩波文庫)

コメントでおすすめされ、面白そうだったのでこれを貼ります。

 

最後に

 厳密には立ち位置が違うのだが、参考にさせていただきました。

 成長とか成功とか気にせずに、読みたい本を好きに読めばいいのでは。 - 脱社畜ブログ 成長とか成功とか気にせずに、読みたい本を好きに読めばいいのでは。 - 脱社畜ブログ

僕よりもシンプルで力の抜けた落とし所に収まっているいい記事だと思います。合わせてお読みください