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かくいう私も青二才でね

知ってるか?30まで青二才でいると魔法が使えるようになるんだぜ?

鳥〜絶望してみろよ!話はそれからだろ?〜


最近、ネット界隈で流行の議論が「承認欲求」であり、当ブログ管理人「TM2501」はその承認欲求が強いブロガーとしてよく語られている。次の記事を読んで、僕がそれに対して何を書こうかという論旨を決めた。

「思っていたほど頭がよくなかった」は賢い人が必ず出会う絶望 「思っていたほど頭がよくなかった」は賢い人が必ず出会う絶望

結論から申し上げよう。僕は承認欲求自体を可視化すれば、それを持つこと自体否定しない。むしろ、「男は全部中二病であり、その本能的な欲求を否定して生きることはできないからこそ、付き合い方を覚えるために持ち続けるべき」とさえ思ってる。
誰かに認められたいという欲求が招く地獄があることは承知している。自分が思う希望「大学に受かれば」「彼女作れば」「仕事決まれば」…誰かに認められ、今よりもよい自分・今よりも幸せな自分が得られるかもしれないという欲求は無限に地獄だ。底なしに続く。

ああ、はっきりといおう!他人は認めやしない!!だけど、言葉の重みもまたその程度でしかない。君の間違えを声高らかに指摘してる、君のクールを罵倒する「彼」の言葉は的確である保証もないし、その言葉に責任をもつきもない。所詮、他人事だ。
求めることをやめてはいけない。たとえそれが手に入らなかろうが、いいものを望まないことで損を被ろうが、望むことそのものを恐れてしまってはほんとうに誰も自分を認めなくなるし、一瞬でさえほめてくれない自分のことを懐疑する自分自身を抑えられなくなる。

承認欲求を持つこと自体は誰もがやること。恥ずかしいことじゃない。だからこそ、その絶望は受け止めるべきだし、絶望を知ったところで怖気つかないで、望み続けてほしい。

あれこれと理屈は言うが、さっさと帰りたい人のために結論を申し上げればたったこれだけのことだ。「鳥」なんだよ!君から見た他人も、他人から見た君も!何もしてくれないが、何もできやしないんだ。精一杯罵倒するか、精一杯慰めるだけ。それを自覚したときに絶望するかもしれないが、そのエゴをやめたら、食っちゃ寝の動物になっちゃう!人間でさえなくなっちゃう。明確な感情と、神経質なレトリックで鳴く生き物を人間と呼ぶならね。

人間の最終形態は大阪おばちゃんなんだよ!彼女たちが一番愛されてる鳥だと思うんだ。さえずるだけで人を幸せにできるそういう鳥だと思うんだ。…ネットでは絶対受け入れられない思想だけどさ。

灰羽連盟というアニメがこの記事のタイトル「鳥」の元ネタだ。鳥が主人公を救い、主人公が恩人の「鳥」になることで認められず孤独に死んでいく人を救ったから。

参考  http://www.geocities.jp/garbagememo/review/haibane/haibane.html

だけど、灰羽連盟に出てきた意味をもう少し掘り下げたい。それは鳥は何度も何度も、それこそ死骸にもなって、夢にも出てきて、やっと一つのメッセージを伝えられる弱いキャラクターなんだ。僕はこの「鳥」を「人の声全般」になぞらえたい。主人公ラッカが鳥を見かけたのは偶然だし、その偶然を信じたから救われた。いろんな人がいろんなことを言うが、意外と言っている事はみんな同じだったりする。

だけど、みんなの意見を聞くか?複数の人の意見を聞いたり、信用できる相手に言われて初めて「ああ、そうかもしれない」と思わないか?

承認欲求…つまり、「何かを成し遂げれば、気取れば、人に認められるだろう」という思い込み、ひいては人に認められて安定した自分の姿を望むことは結果とわずかなほめ言葉で肥え太る。相手にとっては些細な一言かもしれないけど、そんなことはどうでもいい。成し遂げた瞬間の、ほめられた瞬間の欲求が満たされた感覚しかその瞬間は見ちゃいないんだよ!

人間かかわる欲求って全部最後は承認欲求かかわってくるんだよね?勝負の勝ち負け、偉い地位・お金…あ、最たるものは性欲か。

不思議だと思わない?何でセックスに前戯があって、それが無駄に長くて楽しいのさ?ホルモン単位ならともかくとして、あの行為自体は帰って欲求不満になるだけじゃね?極論言えば、つばつけて抜き差しすれば良いだけのセックスを何でわざわざ耳しゃぶったり、ディープキスしたりするの?(※実話に基づいたクエッション)
ヒントだ!性欲だけのやつは売女とやれば良いし、強姦してもいい。道徳的問題はあるが、欲求不満をそれで解決できる。だが、僕は道徳的問題以外の理由で売女ともできないし、痴漢・強姦に魅力を感じない。

セックスへの投資としてデートを考える人がいるが、とんでもない!男というプライドの高い生き物は認めた相手にはなんでもしてくれる女という生き物の承認を何よりも求めるんだ。それは性欲でもあるけど、承認欲求がかなりの割合でセットでついてくる。セックスも、一日付き合って一緒にいてくれるのもあれは承認欲求を満たす行為なんだ。

考えてみろよ?不愉快極まりないぜ?好き嫌いにかかわらず、自分の体をまさぐられる感覚ってものは。それを「あんたなら許してやらんでもない」というお許しをいただけるのは僕はすごいことだと思う。


承認欲求と男性の承認欲求は関係ない?じゃあ、男子学生が「彼女」という存在を過剰に求める理由はなんだよ?結婚もできない、はらませると厄介、話が合わない、金がかかる、友達・趣味が多い忙しい時期、人間関係がこじれる。彼女ができただけで考えられそうなリスクが多い時期にどうして、彼女を欲する?大人ならわかるんだぜ?性欲は自己責任で満たせるし、経済的には彼女と仲良くなればかなり楽できるし、場合によっては結婚もできる。人間関係が収入にかかわる社会人・ビジネスの世界で彼女を持ち、女性の修正を研究することは大いに役立つが、学生の、まして高校生で彼女持ちたがる理由がわかんない。

いいたいことはこうだ!男が女に求めるものは最終的には2つしかない。それは性欲と承認欲求。絶望させるようで悪いけど、誰かに愛される自分のことが好きで、相手のことを命と名誉を失ってでも守る無償の愛を持ち合わせてる人なんぞほとんどいない。認めてくれるから愛されてるだけ。それに興ざめして学生カップルって長続きしないし、外野で見てる人は恋愛のばかばかしさを指摘するんだよね。…ロシアハーフの美人と付き合った友人がソースですけど。


恋愛の話はたとえ話。もうちょっとまとめていこう。
あらゆる欲求は「承認欲求」・・・平たく言えば「見栄」へ帰結する。それらは新しいものを得るためには必要だ。必要なものだけをシンプルに追うだけなら学校の勉強も、部活動も、あるいは恋愛やゲームも熱心にやる理由がなくなる。好きな人しかやらなくなったとたんに親の言うことも、先生の言うことも聞かなくなる。

40代は承認欲求の危険性ばかり語りがちだが、この「承認欲求」「世間体」「見栄」「面子」…誰かの言葉を借りれば「執着」。それがあるから秩序があり、序列があり、生きることに飽きないで、競争と富に飢え続けられるんだろ?その事実を認めずに、承認欲求を否定する人が多すぎる!!

人間は「社会的な生き物」という人がいるだろ?あれは平たく言えば承認欲求が「最低限では足りないほどの競争」を生み出すことで人類は富を手にしてきたし、不必要に文化を創造した。相手を認めさせるためにやりすぎなまでに手間を加える。勝つため、人よりも優れていると認めさせるために。

ただ、承認欲求への問題点として「目標設定が間違ってたら、悲惨だ」「承認欲求から逃れられず、望み続ける限り満たされないし、満たされても次のものを望む無間地獄に入る」「達成できないと絶望だ」という批判がある。たしかに批判者たちの意見はごもっともだ。承認欲求は目標設定や、欲求そのものの制御ができないとそれ自体が不幸になるためのスイッチでしかない。

いうなれば、承認欲求とは「心のアクセル」なんだ!行動するために必要な動機を作る気持ち。すごい力を生む可能性はあるが、その力が結果を約束するものである保障はこれっぽっちもないし、自分が満たされない夢を持つ危険性は考慮してない。

…何度も言ってるが、誰もが広末涼子とは結婚できないんだよ!AKB48もアニメキャラも君の事なんか名前も知らない。だから、無理な願望なんだ!!そこに絶望するのが危険?いや、そこに行くのが納得できないんだよ!!

  • 絶望してもなお行き続けるために。

仏教風に言えば、2つの言葉で承認欲求を克服する方法が提示できる。ひとつは「足るを知る」、ひとつは「孤独に歩め、悪をなさず求めるところは少なく、林の中の像のように」…あ、後者はアニメの台詞で有名だよね。

突き詰めていくと、イノセンスに出てくる「今の自分を幸福に思うか?」という問いかけも承認欲求との戦いではないだろうか?自分が認められたと、あるいは自分自身が今の自分を認めているかという問いかけ。だとしたら?

承認欲求がアクセルだといった。アクセルがないとだめなときもあるが、アクセルだけでは人を殺しちゃうことも自分が壁に当たって死んじゃうこともある。だったら、ブレーキとギアをつければいい。ブレーキは満足する点を作る「足るを知る」という発想。ギアは「孤独に歩め、悪をなさず求めるところは少なく、林の中の像のように」という発想。

押井守ファンはもう知ってると思うけど、この台詞の解釈に困る人もいるからネットから解釈を探してきて載せておきましょう。

ブッダの言葉を集めた『ダンマパダ』の23章にある一節(330節)です。

質問にある言葉の前には「もしも思慮深く聡明でまじめな生活をしている人を伴侶として共に歩むことができるならば、ともに歩め」「それができないならば、愚かな者を道伴れとはするな。国を捨てた国王のように、また林の中の象のように、ひとり歩め」という文があります。

これを意訳すると
「お互いに助け合ったり、切磋琢磨できる人物がそばにいるならその人と一緒に高みを目指せばいい」
「だが、そうでない人と付き合うことは自分を堕落させることになる。だからもし、よき伴侶がそばにいないならば、国を捨てた国王のように、地位や財産や名誉など余計なものを全て捨ててしまえ。林の中に静かにたたずむ象のように、ひっそり気高く生きていけ」
ということです。(出典・教えてgoo http://oshiete.goo.ne.jp/qa/1915531.html

…さて、僕の言いたいことがわかってきただろうか?なぜ、「鳥」というタイトルをつけたか。

承認欲求を論じるうえで大事なポイントは3つある。1つは承認欲求の性質を見抜き、その対策として補完できる要素を発見して実につけること。それが先ほどまでやっていたこと。
次が「自分に間違えがあるように、他人にも間違えがある」という前提。そして、他人が欲求を満たしてくれない、欲求そのものを理解されないときの絶望を知ったときにとる選択を考えておくこと。

「鳥」というタイトルをつけた理由。それは自分の承認欲求に間違えがあるように、他人の批判にも、分析にも間違えがあるということ。間違えはあるが、鳥が泣き止まぬように人間も考えることと他人を助けることで自分が認められようとする承認欲求と思考する好奇心をとめることができない。そして、自分がすべての人の言うことを聞かぬように他人もまた、欲求を満たしてはくれない事もある。

承認欲求を持たぬことも、承認欲求を持つことで生じる絶望を避けることも不可能だ。不可能だからこそ、絶望したそれからを考えたほうがいい。
昨日まで頼っていた推進力…へたすりゃいきがいを全部かなぐり捨てるには時間も負担もかかる。だから、その捨てきるまでの緩やかな付き合い方を考えないといけない。

僕なら「自分から見た他人は常に鳥だ」という答えに落とし込む。このブログもただのさえずりだ。さえずることで癒される人がいてくれればいいという程度のものだ。僕のブログが気に入らなくて文句を言うやつもいるが、これだってさえずりだ。さえずる事で何かしら満たされるものがあるんだろう。

切磋琢磨しあえる人、いいアドバイスをくれる人ばかりでもない。あるアニメっぽく言えば「少しのいい大人と、大半のどうでもいい大人」。少しの人と切磋琢磨できればいいけど、変わった道を行けば行くほど人は孤独だ。そういうときに欲求が満たされないからやめるのか、欲求を信じて半ば切望しながら突き進むのか…。答えは欲求の強さで決めたらいい。死ぬほどやりたいことなら絶望しながらでも、やればいい。早かれ遅かれ絶望するんだから。欲求が高ければ高いほど、絶望する可能性や回数は増える。

だったらもう、自分がちっぽけな鳥で、そんな鳥でもタイミングと相手の気持ちがあえば何かできる・・・そんな程度のものだと割り切っちゃう。それがたぶん承認欲求との付き合い方。
欲求の大きさによって付き合い方を分けるべきだが、死ぬほどやりたい事だったら、ハードルをあげちまえばいい。みたした後でもはや何もないならば、一度手を休めてみるといい。

絶望を恐れるよりも、絶望をプロセスだと組み込んだほうが幅が広がるよ!痛い思いしないで生きていくことはありえない。むしろ、やり直しが利くうちに、誰かに守られているうちに絶望しといたほうがいい。違うかね?