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かくいう私も青二才でね

知ってるか?30まで青二才でいると魔法が使えるようになるんだぜ?

自分探しと言うけど…探しているお前自身は何者なの?


 自分探しの学生が言う「人生観が変わった」が胡散臭い理由 - やたすんのお話 自分探しの学生が言う「人生観が変わった」が胡散臭い理由 - やたすんのお話

上の記事を読んだから、前々から思ってたことをぶちまけていきたい。

 

  •  「自分探し」で出かけるやつは心ここにあらずか?

自分探しと言って外国や途上国に出かけるヤツらが理解できない。

 

 そんで、探しに行った人が何を言い出すかと思ったら「人生観が変わった」と意気揚々と語るんだって。それについて大人が聞くと「胡散臭い」「子どもっぽい」「語彙力がない」と感じるそうだ。

 もちろん、「自分探しの旅」に出た彼らにも言い分があるので、語彙力が彼らよりは多少ある(と自負してる)僕が説明しよう。

 

心理学用語には「ジョハリの窓」という言葉があり、それによれば4つの自分がいるのだという。

1、自分も他人も知っている自分

2、自分には気づいてなくて、他人には気づかれる自分

3、自分は気づいてるけど、他人は気づいてない自分

4、自分も他人も気づいてない自分

 

「自分探し」を学術的に説明すると、「4つの自分を出したり、隠したり、見えてない部分に気づいたりするための訓練」なんだ。それをやることで自分ができる(魅せる)コミュニケーションの幅が広がる…というのが自分探しを支持する人の言い分。

 

ソースは中1の時の担任。(悪い意味で)意識の高い先生だったから、意識の高いバカを見抜く良い訓練になったよ。

 

「自分探し」という言葉自体の頭の悪さもそうなんだけど、方法も良くない。ジョハリの窓にあるように「自分の気づいてない自分」を見つけること自体はいいと思うんだけど、それは旅行に行ったり、ボランティアに参加したり…そう言うことでは得られない。

 

「人生観が変わった」と言ってるけど、そもそもプレーンの人生観がある人が言ってるの?

 

「自分達の豊かさ」なんか、僕は10代前半で家族旅行でタイに行って裸足でサッカーしてる子ども見たとき、10代半ばでバアさんが車椅子になった時にもう気づいてた。

いや、小学校の時に障害者の同級生が4人もいて、クラス・学年のみんなでその子をフォローしながら6年も過ごしてきたから「自分は恵まれてて、何かしら人のために生きていかないといけない」という途上国からもって帰ってくる結論にはもうすでに気づいた状態で人生を送ってきた。

 

極端なことを言えば、大学生で僕のような体験して「人生観が変わった」と言ってる奴は僕より6年ほど遅れてる。

僕にチャンスがあったからじゃないぞ?お前達が気づきのチャンスを見て見ぬふりしてきただけだ!世界の広さ、理不尽さ、自分達が「守られてる」こと、これからも「守られながら生きていく」こと…そう言う価値観に気づくのが遅かっただけなんじゃないのかい?

 

自分探しなんて言うが、探している当人が「本当の自分はどこにいる?」と言ったって、それはいない誰かを探しているのとたいそう変わらない。

 

  • 「自分探し」は心の化粧だと思う

ただ、現実問題として前述した内容を読んで次の疑問を覚えると思う。

「自分探しをしている人の中で、ジョハリの窓について知ってる人が何割いるのさ?そんな言葉を勉強してる勉強家なら、自分に気づくためにもっと心理テストや身近な生活での努力に走るのではないか?」

 

そう。「ジョハリの窓」通りに「自分の知らない自分に気づくこと」を優先するならば、

1、自分がどういう人間かを身内・友達に聞く

2、精神科医かカウンセラーにテストをしてもらう

3、趣味・学業に打ち込んで自分に気づきを与えてくれる友人を作る

4、自分の関わっているコミュニティの歴史と現代を学ぶ

 

などがあると思うが…「自分探し」にはどれも含まれない。なぜなら、それは「自分気づき」であって、自分探しに行くような連中にとっての「自分探し」じゃないからだ!!!

 

自分探しという言葉を初めて聞いたのは中1の担任教師からで、「対人スキルと自分探し」についてしつこく言ってたのだが…どうも今の大学生の多くはそう言う目的じゃないみたい。

 

もっと安直に「自分が変わった・アピールする自分ができた」と言いたくて、乏しい知性と品性と感性の上に「海外留学」だの「途上国への旅」だの「ボランティア」というものを上塗りしたいだけなのだと思う。

そんなものは「元より内在した自分」でもなければ、「新しく自分の人生を彩っていく自分」でもない!

 

女人がする化粧と同じ。

 

しかも、その「厚化粧の自分」を社会がそれを容認している部分があって、「震災のボランティアをしたら単位を与えます」みたいなことを言う大学があり、高校・大学の中で「外国へのホームステイを必須にします」との謳い文句を掲げる学校もある。(全てにおいてそうだが、特に予備知識も志もない「にわか○○」はイメージダウンと、現場の混乱につながるので、無意味に送り込むのはやめましょう!)

 

そんな化粧美人が「人生観が変わった」と言ってみたりするんだけど…そりゃ、みんな「胡散臭い」と言うよ!動機も不純だし、本質的な根拠とずれてる。

  

一時的な興奮で「私は変わった!」と言っている人がいるが、ちょっと冷静な人は「それはワールドカップの時だけサッカーファンになる人と同じよ。」と言いたげな表情で見てる。

 

  • では、「自分を探した」としてどうしようか?

自分をさがしたとして、結局それが何だというのだ?

 

 と僕は言いたい!だって、人生なんて「終わりなき日常」なんだから。

自分の話をしましょうか。

僕は躁鬱病になりました。 そして、発達障害という精神疾患のトリガーを僕が気づくよりももっと小さい時から患っていることが23歳でわかりました。「発達障害」なので、発達が終わったあとではもう対策のしようがありません。

 

「自分探し・自分気づき」はいいことのように言われるけど、僕の場合は自分が「精神疾患になりやすく、また社会適合能力がIQの乖離や性格上の問題から低い」という絶望的な結果に気づくことだった。

 

得手不得手が人一倍大きい(言語能力は天才で、動作性IQは障害者とのボーダーラインの)人間であるにもかかわらず、子どもの頃から母親から「要領が悪い」「バランスの良い学力がないバカだ」と散々言われそれが原因で親子関係が未だに悪い。

 事あるたびに「精神科に行け」と差別のように私を罵ったが、いざ行くと言って連れて行ってもらった試しがなかった。今回だってナースの友人がいなければ、躁鬱病が発覚せず、おそらく自殺してた。

 

自分探しもそれを本気でやって気づくことは、自分の無力さと、過去の間違えだ。

 

そして、そんなものと向き合う勇気(向き合わざるを得ないほどひどくなる状況)になっても、なお愉快に「自分探し」などと叫んでいられるとしたら、その人はネジがぶっ飛んでる。

 

自分を探そうが…たった一つの未来だけは共通している。

「生きていかないといけない」という事。弱い自分・限界の見えた自分・何もできない自分・誰かに受け入れられない自分…それに気づいた時、自分のそういう部分とぶち当たった時に、どう生きていくか?

 

その「絶望」と向き合うこと・絶望を克服する姿を見つけることだけが唯一本当の「自分探し」なんじゃないのかい?絶望を受け入れ、明日を来年を生き、平凡に老いていく。

 

その自分を探す自分探しなら僕は応援したいけど?

 

 

 

 

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