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かくいう私も青二才でね

知ってるか?30まで青二才でいると魔法が使えるようになるんだぜ?

時間とソーシャル〜なぜ日本のソーシャルゲームだけモバイルが多いのか?〜


ある経営者いわく「日本と海外のソーシャルゲームには大きな違いがある」という。それは媒体がPCメインか、モバイルがメインか…という話なのだそうだ。それに目を付けて、モバイルのソーシャルゲームで海外に打って出よう…ということを考えているそうだ。

なかなか夢のある話だから応援したいが…私は「攻撃限界点」が早く来る話だと思う。シンプルにそれを説明するだけで1記事できる。だが、この記事は料理の仕方次第では日本人の問題点…とりわけ時間に関する問題点を浮き彫りにできる可能性があるネタなので、深く、濃密な書き方をするように構成していきたい。

  • 日本人ほどモノを大事にする民族もいないが、日本人ほど時間を粗末にする民族はいない

ブログのネタに3人の本を読んだところ、みんな口を揃えて「ヨーロッパ人の時間の過ごし方に驚いた」と言っている。逆に、日本で働くフィリピン人が「平気で残業させるなんて日本人は時間にルーズだ」と言ったことがネットで話題になってる。

どう違うか…というと、2つの視点で説明できる。キーワードは「所有者」と「スイッチ」だ。
まず、「所有者」についてだが、日本人とヨーロッパ人の大きな違いは時間や権利が個人主体であるか、組織(コミュニティ)主体になるか…という点。これは転職の多い少ないという論じ方でもいい。

例えば、外資系勤務が長い僕のオヤジは「会社に仕えている」という意識はない。「会社で何ができるか」と考えた結果今の職種で30年近く渡り歩いてきただけで、その時に「自分がした分を会社が返してくれなければ転職する」というスタンスをとって、勤め先を変えてきた。

オヤジの労働観が僕のベースにあったから、僕が社会にでてからは度肝を抜かれた。

コテコテの日本企業…40年間ワンマン経営者親子が彼らの個人技とカリスマ性で維持してきた企業に入ってからはこの考え方ではダメだった。
日本の会社は(次行ったところも含めて)「会社で何ができるか」という個人技をあまり配慮しない。「会社が必要なことをそれぞれが行う」事を前提とする部分が大きい。その結果、仕事ができる奴が貧乏くじを引くため貧乏くじを引いた人を如何に会社が調整するか…が問題になってくる。

それは経営者が名誉や信用を与えるか、仕事を振る責任者が楽な仕事を振ることで調整するか…要するに日本式経営にはそういう「利害調整役」だったり、「人格者」を演じる優しさが必要とされる。

日本人の根底には「会社(システム・インフラ)を運用する」という責任感が上に来て、個人の権利はそのあまりだと考えてしまう部分がある。それは休みの日でも仕事があれば呼び出す文化にもなっていくだろうし、部下に箸の上げ下げまで報連相させる文化にもつながっていく。要するに「働いてもらっていて、経営者・上司は皆さんの時間を頂いている」という観念がない。

他の転職が多い国は「時間も自分のものだ。俺の時間をもっと大事にしてくれる人がいればそこへ行こう」という考えをちらつかせながら働くため、自分の時間を大事にする。

これだけでも十分違いがわかると思うが、重要なのは2つ目だ。

日本人のほぼすべての人が休む日は盆と正月…つまり1週間しかない。(最近は年中無休を誇らしげに掲げるバカなお店があるけど…)要するに売上も労働時間も「量」を重視する傾向が強いんです。

ヨーロッパ人には「バカンス」と呼ばれる夏休みがありますよね?アレで短くても3週間は休むらしいです。
また、バカンスの過ごし方についても日本人の旅行観と違う。例えば、日本人の旅行は忙しく観光名所やその場所の特産物を食い漁(あさ)って「楽しかった!!」とか言いながら、その土地をを後にして…帰りにものすごく気だるくなる。家についたら「やっぱうちが一番」とか吐かしおる!じゃあ、出かけるなよ!!

ヨーロッパ人のバカンスの過ごし方は丸一日…それこそアザラシみたいに日光浴してる。スイッチを完全にオフにして再起動するそうだ。「禅」みたいなもんで、過去・現在・未来についてじっくりと何週間もかけて考え込んでそれが完了してから遊ぶそうだ。

言われてみると、日本人ってスイッチをオフにする機会がないですね。完全に切りきる時間がなくなった。なんか四六時中はしゃぎ回ることが素晴らしいみたいな文化があるような…。だいたい正月はいつからお祭りになったの?紅白歌合戦/プロレス/笑ってはいけない…うるさいよ。静かにそばをすすってしみじみと過ごせよ!!

…ああ、鬱陶しい!!

  • 日本のソーシャルが普及するとしたら「スキマ時間」の概念が必要

モバイルのソーシャルゲームが世界と違って伸びている事情を考えたとき前述した時間の話が役に立つ。

日本で「モバイル」のソーシャルゲームが普及した理由
・高性能な「ケータイ電話」が既に普及していた(そこから派生する「多機能に携帯電話を使いこなす文化」ができていた。)
・「何もしない時間」が元々ない(必要悪的に捉えられていた)国民性・労働観ゆえに「他の時間を取らない【スキマ時間】でできること」というのがウケた。
・匿名かつ浅い「ネット上のつながり」という文化的土壌があった。
・ちょうど、ゲーム業界の過渡期であったこと。ゲーム機が高性能化すると共にニーズが二極化し、シンプルでわかりやすく、簡単なゲームは行き場を失っていた。それらの「敷居の低いゲーム」をソーシャルゲームがそれを引き受けたこと。
・それでいて、ゲームに関する歴史が長く・普及率も高い日本市場は海外とは特異なセンスを持ち、参入障壁が高い。(技術的にはそうでもないんだけど、日本人の娯楽やライフスタイルを研究しないといけない点で欧米人とは違う。)

この中で最も大きいのは【スキマ時間】という概念です。スキマ時間という概念が普及してる理由は「何かしていることがいいこと」という日本人の国民性に加えて、「電車・バス通勤」が大多数であるというインフラの事情なんかもあるでしょう。

結局パソコンでガッツリとチェックする順路としてSNSソーシャルゲームが普及してきた経緯を考えると、ライフスタイルの違いから(特に米国は)モバイルのソーシャルゲームを普及するのは厳しいんじゃないのかな?次に時間の使い方・考え方が違うヨーロッパ人もヘビーユーザーの廃人達にたたきつぶされるソーシャルゲームをどこまで楽しめるか…。

「陰気なオタクの遊び」とレッテル貼りして切り捨てられるのがオチだと思いますよ?(※本当のオタクはそもそもGreeやらモバゲーで遊ばんけどな)

そのソーシャルゲームの経営者が「東洋」のことを「世界」と呼ぶならその道は成功すると思うけど、ライフスタイルや文化的価値観が違う欧米それぞれでは普及しづらいと思うなぁ。モバイル系ソーシャルゲームをやるシチュエーションがそもそもない。あったとしても、それがいかに有意義かを強調できない。

外資系のオヤジのせいで、時間観・労働観が欧米人染まりしてる私からしたらあんなのやる奴バカだと思うからね。いんや、Twittermixiはギリギリセーフとしてもスキマ時間のつもりでやって、自分の余暇を食いつくされて、やがては生活の全てをソーシャルゲームにしないと強く出来ないシステムになっているあのゲームにハマる人は私はアホだと思う。

最後に、ソーシャルゲームに限らず、ソーシャル全般の問題点の話をして終わりにする。

  • 活字離れではない!若者の「空想離れ」なんだと思う

最近、人と会ったり、会話したりすると感じるずれの中に「表現が正確なだけで何の面白みもない」ってのが若い人に対して感じる。年配者と会話するときのあのムダ…それも楽しいムダがない。

僕なりに考えた末に思うことが「ネット(とりわけ「ソーシャルにかけていた時間」)は元々なんだったのか?」という議論にたどり着いた。

スキマ時間を例にとれば、その時間というのは元々本を読んでいた時間じゃなかったか?いんや、年配者は未だに小説か新聞を読んでいるのだが、若い人はPSPかケータイか音楽プレーヤーと相場が決まってる。(嘘だと思う人は山手線に乗ってください)

特に大事なポイントは「小説を読まなくなったんじゃないの?」という事。

若い人は活字離れはしてないです。漢字を読む能力・ライティング技術(論理性や文法に忠実な書き取り)・語彙力などは数十年前の同世代よりもあると思います。娯楽が文字でのやり取りになっているから、遊びのためにそれを学び・覚えるためそういった技術は成長する。

だけど、その分減った技術が「小説的・エッセイな表現技術」と「手書きの技術」。漢字が書けなくなった…というのは有名だから、これは割愛します。大事なのは「抽象表現・比喩隠喩掛詞などの文章演出をかける技術・空間描写技術」が欠如した人が増えているように感じ取れる。

これは僕がブログ書いている体験でよくわかります。僕の文章を「文才がある」と褒める人は多いのですが、「文章がうまい」と褒める人がいない。彼らの言う「うまい文章」とは論理的である事、文法に忠実な事である。

では彼らの言う「文才」とは何か?それは「文章特有の楽しみ」のこと。文章とは映像の下位互換ではない。比喩や掛詞やルビ・読ませ方、文体によって作られるリズム感や崩して書くことによって生じる事実を眺めることとはまた違った感情。

言い換えるならば「レトリック」とでも言えばいいでしょうか?伝え方で感動させる技術。僕はどちらかというとそっちの技術の方が「文章を読む意味」だと思うんですよ。

…また、いらんことを言わせて。僕は文章よりもしゃべりの方が自信があるのよ。だから、今16歳ならメルマガではなく、マスクかけてニコ生をやるところから僕が友達に発信することが始まっただろう。

メルマガを送るときに気を付けたのは「正しい日本語」なんかじゃない!!そんなもんじゃない!!

それは「日記が届いたときにワクワクしてくれる…読んだ人の心をつかむこと。みんなで過ごした時間のワクワク感を僕の文章で寄り鮮明に映し出してくれること。それは事実を淡々と書くだけじゃダメで、当事者として何を思い、なんでやったかをその場にいた人のように…俺になりきったように」読んでもらうこと。

誰かでも、メタに俯瞰した目線でもない当事者感覚。エッセイ的・小説的な技術はこういうレトリックを大事にするけど、ネットの情報・文章は「文才」なるものが重視されない。

文才あるブロガーさんもいないわけじゃないけど、ただわかりやすく論理的で明確な人が増えた。
Twittermixi日記で書くときはそういう書き方の方が良いのはわかるが、そればかりがあふれた。

え?何が言いたいのさ?
『小説的な…文書そのものの味わいを再現できる人が減った。それはライトノベルが「台本集」みたいになった事にも起因しているが、余暇を会話やゲームなどで使う事で文章に触れる機会は小説ではなく、会話的論理的なモノに変わったことにある。文章そのものの魅力ではなく、「リアルの下位互換・整理形」としての文章ばかりが世間に広がったことで、感情やトリックを文章で表現したり楽しんだりできる人が減ってしまった。と言いたいんだよ!コノヤロー!!

これって文章に限らず、フィクションに関する空想や想像力もまた然りで、型にはまった感じです。

インプットに使っていた時間がアウトプットに向いすぎた。そして、それが日本人の場合はじっくりと充電して整理する時間をつくらないことで加速し続けていく。僕はその事はせっかく日本人が持っている文化的土壌を無為にすることになるんじゃないかなぁ…と思うんです。

小説を読もうなのか、自然と触れ合おうなのか、休みをとってじっくりと自分の時間を見つめようなのか…答えは人によるだろう。だけど、ソーシャルの先にある袋小路の姿を見えてないということだけ言わせてもらいたい。

その袋小路は「新しいものを作る」事で突破できる壁ではなく、「考え方そのものを変える」事で見つかる通り道ではないでしょうか?

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