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かくいう私も青二才でね

知ってるか?30まで青二才でいると魔法が使えるようになるんだぜ?

なぜ学校に行くのか?〜「学校に行かない」選択について考えてみる〜

教育論

まず、これをやるきっかけとなったのは「いじめ問題報道」の中で「学校に行かなくてもいい」といった人達がいた事。西原理恵子さんみたいに学校の外の世界から大成した人が言うケースもあれば、静岡のさる役人のトップのようにエリート様が「いじめられてるんだったら仕方ないんじゃないの?」と理解を示しているに過ぎないケースと様々だが、僕も「学校なんぞ行かなくてもいい」論者だ。

だいたい、学校に何をしに行ってるか…そして、日本で働いていくときに何が必要か…というお話が学校に行く・いかない以前になされていないのは変だと思うのです。(海外行く奴は学校やめた時点でそっちに行けばいいじゃない!)

「学校に行かない人」が学校で身につかないものは何なのか?学校に行って失うものはなんなのか?を理解しておけば、本当に学校に行かない人が何をすれば、後々世の中でやっていけるのかがわかると思うんですよ。

  • だれかが「人間は社会的な動物です」って言ったそうです。

簡単に言うと「社会性を育てる」とか「動物(気分・本能の赴くまま)から人間(規律や教養で物事を判断することができる連中)へ」と言うのが、学校に行く根本的な理由だと思います。

大人になったら、時間刻みで動く・目上の人を敬う・規則を守る…など「単に仕事ができる」ではいけない部分がある。それを学校で補完しようとする考え方が1つ。
学校で読み書き他、あらゆる勉学を行うのはそれらが仕事の基礎になるから…という理由が1つ。「課題に打ち込む・課題を解決することで実力を養うため」というのが1つ。

どちらかというと、学校というのは西洋なら近代化(産業革命)の際に「労働者」という階級を作るために必要な施設であった。(※大学だけちょっと事情が異なるけど)
日本の場合は…「富国」もあるけど、「強兵」のために必要だった。(寺子屋と明治以降の「学校」の大きな違いは学校の方が「規律を守らせる側面が強い」。どちらかというと寺子屋は「教養を付ける」側面の方が強い。その理由については後半で。)

日本はあらゆるインフラが軍事化のために作られた国だから、学校という場所がやたらと規律正しく、平均水準の向上、異端児の排除…という構造になってる。軍事的目的でできたもの?一番身近なものは郵便局だね。あれが山奥まであるのは「兵隊を集めるため」の役割があったから、現代の人からしたら「なんて不採算なところに…」という場所にでも郵便局がある。(詳しくは拙作「なぜ日本中に駅と郵便局があるのか‐明治政府の国家戦略論‐ - とある青二才の斜方前進 なぜ日本中に駅と郵便局があるのか‐明治政府の国家戦略論‐ - とある青二才の斜方前進」でご覧ください。)

明治時点での教育における目的は東西共に同じ。「産業革命」もしくは「近代的軍事化」によって大きな組織に順応した労働環境が必要となっていた。その環境を整えるために必要な存在が「規律」…教育に関する分野で言えば「決まり・空気を遵守する精神」となってくる。

三ケタ以上の人間が同じ動きをするためには一定の規律を守る意識・礼儀がないと全体が乱れるのです。トップが下に向けて命令や計画を出すときに文字が読めてもらわないと困るし、時間・規律に対して敏感な体質、周囲の空気に順応しようとする体質でないと困るのです。「自分は自分」の個人主義を取り除いておかないと大きな組織で仕事をさせられないのです。

実体験をいえば、中小企業なら酒乱のやつ・遅刻してくる奴・体力がない老人・運転ができない・販売力がない・借金があって毎日仕事したい奴・経営に悪影響な人物を早く辞めさせないといけない奴…などに対して社長などのトップが「裁量」を利かせて大目に見ながら使っていくことができます。しかし、大企業なら5分の遅刻で30分の減俸(または説教)にしなければ、他に働いている人への示しが付きません。

断言するのもアレですが、近代とは規格化の時代なんです。「少数精鋭ではなく如何に数の分厚さ…規模の経済を効率的に機能させるか」という事に重きが置かれたため、教育は「時間・規則・団体行動」という事が重視されたのです。

西洋だと子どもを厳しくしつける風習が強いため、学校と家庭のギャップは少ないのですが…日本の場合は両極端なんです。親がとことん変人に振舞うかと思えば、外では外の顔…と言うものを身につける。子どもは家庭の調子で変人をやると学校では弾き出される。

  • 「寺子屋」という教育機関の意味

日本人は昔から「共有する」ことが好きな民族で、一定水準の大衆文化がある。(そして、その最前線で新しいものを作るマニア・達人がその時代その時代のスターとなる。奈良・平安ぐらいなら「詩歌」、なら「お茶」、今だと「ブログ」だと思う)

ブロガーなんかもある意味そういう存在だね。僕は完全に「基準がアレな人」向けだけど、みんなが更新するものだから「これは!」というスターが生まれる。(この場合の「スター」とはちきりんとかしょこたんブログとか「ブログやらない人でも知ってる」類のネームです。僕みたいにネットウォッチャー・ブロガー・創作をやってないと絶対に知らないような「業務用(趣味用!?)」は指しません。)

ブログの話をする理由は日本が「口論より文章による討論」の文化だからです。…これは「大昔から庶民が文字・言葉あそびができ、識字率が高かったから」という理由だけではない。日本語の性質が他の言語よりも複雑で「読む教育」に時間をかけるようにできている事が日本人の語彙力・表現力を高めているという話だ!!

ディベートが苦手なのは使う時間の違いです。西洋の言語は原則アルファベットしかないから、日本人みたいに1500とも1800とも言われる常用漢字とその組み合わせから来る連語・熟語を一々覚える必要がない。日本人が漢字を書いている間、彼らは議論してる。

「遊びにも商売にも使うからどんな階級の人も文字を覚える文化が日本にはあった」というのが識字率が高い理由なんですが…この文化はけっこう「学校に行けない人にとって救いがある話」だと思う。

  • 「学校で身につけるもの」は学校だけのものか?

ここまで「学校とは子どもが大人の社会でやっていける社会性を身につける場所であり、社会性とは「規律的側面」と「教養的側面」によって構成される」と話してきた。

ここで疑問なのは「社会性」がどれほど役に立つか…という話。また「学校に行かなくとも身につく(もしくは必要のない技術)なら学校に行かないでもいいのではないか?」という疑問。

まず、教養に関する側面は学校に行かなくてもクリアできますよね。大検のハードルは普通の高校生が受かるにはハードルが高く、「合格すれば、それでも早稲田・慶応に受かる」なんて話すら聞こえてくるぐらいの代物ですが…無理ではないですよね。むしろ、毎年数千、数万人という「高学歴」が生まれているからできないことではないですわな。

もう少し言えば「大検にも受からないで、学校でやっていくコミュ力もない人が社会でやっていく武器は?」という議論になるため、もし学校にも行かない、大検もクリアできないなら働くことが一番合理的かもしれない。
あ、大検行って高校で学校に行かず「大学生」になった人は人との接触を最小限にして大学生活を送れば、イジメの心配はない(むしろ孤独なぐらい)になるから、心配ないでしょう。

問題は「大検に受からない、大学にもいけない」不登校だけど…ここで議論を2つに分けないといけない。
1.そもそも、団体行動全般ができないため「引きこもり」状態の人。
2.学校(という場所・システム)とは合わないが、課外活動ができる程度には特技や友達や働き口がある人

いつも思うのだが、僕は「不登校=引きこもり」っていう観念になって、ここでいう「2」の人が議論されないのが不思議だ。いくつか紹介しよう。

ケース1、高校時代に「課外活動」があった人は輝いているものだ。例えば、僕の高校時代の友達に家が不動産会社の華人ファミリーがいるが、彼は哲学があって好きだね。関東人特有の回りくどい表現もないし、自分を持ってるからガッツリぶつかってきてくれる。学生特有の「何もかもが「練習」で、本番がないから自信がつかない」というコンプレックスからは外れた人だったため、接していて、非常に楽だった。(学校の勉強ができない人だったけど、「宅建・不動産知識があれば、別に学歴なんぞどうでもいい」と割り切っていた人なので、自分に自信があったね。誰かに認めてもらわなくても。)

ケース2、もう一人は「親戚が研究所の研究員」という人。この人も学校の勉強は「平凡」だったから浪人してるけど、「必要な学問」が明確だから、自分の学力の低さ・問題児振りなどに一切の劣等感がなかった。(そういう結果だった)というぐらいの割り切りで動いてる。

真性の引きこもりでない人…もしくは「仕方なく」程度でひきこもりになった人は「手応え」をつかむように重視すべきだ!!周りの9割の人が「学校」に属していて、学校が世界の中心だと思っていても、社会でたら学校でやっていたことは大したことない。学校で「いい子だ」「君はできる」と言われる2.3割になれないなら、自分にあった別の世界を見つけるべきだ。

極論を言えば、「学校いてもひどい目にしか合わない、ろくな人間にならない」という自覚があるなら一度バイトしに行ったらいい。マクドでもコンビニでもなんでもいいからやってみたらいい。マニアックなものでもいいけど、カルチャーショック起こす危険があるからとりあえずはコンビニから。家業がある人はそれを手伝ってみるとか。…引きこもる勇気がないけど何か変えたい?根ほり葉ほりオヤジか親戚の仕事について聞いてご覧!できれば、親の友達にあってご覧(特に父親の友達をビジネス・趣味両方とも見てご覧。面白いから)

最後に…どうあがいても「集団行動が無理」という人は…よかったね、日本がディベートよりも文章の文化の国で。ノマド論ぽくて申し訳ないが、文字がかける…それだけの教養やそこから派生する笑いのセンスがある人はそれだけでもスターになれるからね。

典型的なのは2chやはてな…あと「田中慎弥」なる芥川賞受賞者もそうだよね。
【ジャパンドリーム】なるものがもしあるとすれば「ネット(頭脳・娯楽)とリアル(肉体・実用)両方のどちらかを選べる」という事。僕はアメリカやヨーロッパでコミュ障がやっていくほうがずっと大変だと思うぞ?基礎的なコミュニケーションが全く出来ない人が生きていくのが日本人よりもどうしようもないと思うぞ?

文章って「頭がいいからかける」ってもんでもないところが面白くてね…学校では「語彙力」の練習をいっぱいやるけど、作文はあまりやらない。作文のコツは学校では「論理的であること」と教えるが、僕なら「コンセプトと自らの基準を示せる事」とだれかに文章を教えるときには言いますね。

文章がもし、仕事になったらすごいぞ!!だって、「社会性」の両方を否定できる。規律の方だけど…これは誰かに原稿を出す場合はしゃーないが、ほとんどの日は自分で予定も時間も生活も管理できる。教養の方は…別に「その道に必要な知識」だけあればいい。「巨人の星」で星飛雄馬が野球バカすぎて世間の話題についていけないがあるが、ああいう感じでいい。(※ジャパンドリームの両極端が「プロ野球選手」と「作家」なんだろうなぁ…学校教育的なモノを否定できる。もしくはそれを志しているから「いらねーよ!そんなもん」と学校教育にケチが付けられる)

他の国だとこの「文章」の枠が画家になるのかな?ただ、絵って上手くなるのに文章以上に量をこなさないといけないし、量+センス+トレンドがあるから、文章よりもずっとヒットさせるのが難しい。*1

まぁ…「文章だけで生きていくことを早い時期に志す」のはすごくリスキーなんですけどね。だって物書きに必要な「軸(価値観、判断基準)」が定まってないから、うまい・下手以前にその人の書くものに厚みがないのだもの。だから、その弱点を補う方法を個々人で考えないといけない。
青二才みたいにネットでもリアルでも「ユニーク」と言われる人ばかりじゃないから、自分で「ユニーク」になる方法を考えないといけない。(※「ユニークだからユニークを超えられない」という考え方もあるけどね。)


う〜ん。多くの人にとっては「学校に行く」というのが一番幸せなんだと思うよ?一人で決断を出したり、考え抜いたり、努力して「何かになる」事を課される事が得意でない人はね。
ただ、この記事で知っていただきたいのは「学校に行かない」という選択をしても生きてはいけるという事。中学・高校で引きこもっても、別にその後に巻き返す事は出来るし、いい大学に行けなくたって目標が明確ならばいくらでも楽しく生きていく方法はある。(お金や評価に恵まれる必要なんか全くない!!)

学校に行く・偏差値を積み上げる…そういう固定観念の危うさを僕は今の高校生…とりわけ勉強が得意じゃない人に知って欲しいね。君らが思ってるよりも社会は広く、選択肢があり…不安定で、スリリングで、楽しいし、腹が立つ!!

もし、引きこもっていて暇で検索したブログがたまたま「青二才」だったら…僕は書いてよかったと思うよ。だって、君のために書いたんだから!!顔も名前も知らんけど、僕が6年前に持った悩みを知ってる「君」に。最後まで読んでくれた君に!!


イケナイ宝箱―ようこそ鬱の世界へ

引きこもりのもう一個の線として「うつ病」「プチ鬱病」あると思うので、どっちだかわからない人のために「リトマス試験紙」になる書籍を1冊用意しました。ぜひ読んでみてください

*1:文章は簡単だよ?まず、「軸」を作る。コンセプトをね。自分の書き方とでも言うべきかな?それができてると、あとは追加建築していくだけ。軸を補完する「経験」or軸をよりキレイに見せる「語彙力・文章センス・知識」を読書で追加していく。たったそんだけ。文章と違って、書き方にトレンドはなく、話題さえ選べば、ヒットは量産できる。…ヒットした話題に対して、自分なりの軸を差し込めば、文が下手でもヒットすることはよくある話