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かくいう私も青二才でね

知ってるか?30まで青二才でいると魔法が使えるようになるんだぜ?

映画はもてなし、ブログは喧嘩〜映画版「るろうに剣心」を見て〜

映画の話 映画の話-邦画

  • 本文に入る前に

僕はジャンプ漫画の中で一番好きなのはドラゴンボールでもジョジョでも、スラムダンクでもワンピースでもありません。るろ剣です。もし、ファンを冒涜する発言うんぬんという批判を僕に寄せたいと思うなら「てめーがどれだけるろ剣が好きか」かいてから文句言ってください。

(以下本文)

「そもそも実写化すること自体が間違ってる貧乏くじの企画。」

と僕が思いながら見に行ったるろうに剣心の映画は実によくできていた。多彩なアクションシーン、原作にも登場しない逆刃刀のメッセージ性、原作では別々であるはずのエピソードの集約…「こんなことができるのか」とすら思ったぐらいの部分もあるほどにるろ剣を理解した人の映画作りだと思う。
だが、強烈にくどい!!

同じセリフ、同じようなBGMの繰り返し…あるいは見せ場のシーンをまさかのネタバレ。僕みたいに映画とお好み焼きを周期的に摂取せねば、死んでしまう人以外が見ればイライラする映画だと思う。

  • 言わないほうがいいことを言って点数が下げられる人

僕自身がそういうタイプだから、本当はこの映画に文句をつける資格がないんです。でも、その「いらんこといい」だから言ってしまうのですよね。

実を言うと、僕は長い映画で面白いものをそれほど見たことがない。他のエンタメに比べて時間的制限が少ないゆえ、長々と作ってもいい映画と文章は「脳内で形成できてないうちに具現化してしまう」という失敗をしている人を時々見かける。

いや、自分がブログを書いている時に同じ感覚に陥ったことがあるからよくわかるんだけどね。
2時間かけて、書籍10頁、20頁になろうというぐらい書いてはいいけど、メッセージ性のまとまりが悪くてボツにしたものが実を言うと今まで投稿した記事と同じぐらいはある。(ボツ・御蔵入りまで含めると1000記事ぐらいの文章をここ2年ぐらいで書いている。)

本当はニュースもはてブ、ツイートされているものの3倍はチェックしてるが、結局はまとめきれなかったり、何も言葉が見つからず、それを出してない。結論ありきに僕を2chまとめブログやニコニコニュースしか見ていないように言う人がいるが、あれは2次ソースだから、週刊誌・大手マスコミなど実際に見ているニュースソースの数は本当はすごく多い。

何が言いたいか?『情報やコンテンツを作る人は「情報を間引く技術」が要求されている』と言いたい。

意外と思われるかもしれないが、誰でも多くの人の考え方に触れたり、人と違う情報源を持っていると「相手が思いつかない事」を言える、作れるようになる。「予想の斜め上」なんてのは実はすごく簡単に作れる。

だけど、るろうに剣心の映画や自分がブログを作る上での自戒を言えば『作ったものを自分で消す・壊すするところまでが創作』だよ。

るろ剣の映画は確かにあらゆるものが詰まってて、最初の1時間少しは圧巻の出来栄えなのだが…終わってみると「やっとか…」という不思議な映画だった。さっきの話ではないが「詰め込んだけど、間引けていない」というのがこの映画らしい。

  • 俺のブログを見に来る奴は俺の喧嘩を買っていると思う(笑)

映画ってのはコース料理に似てて、いくらでも好きなもんを作ったらいいんじゃないし、相手が美味しいと思える順番を考えないといけないし、同じような料理ばかりを出していいもんでもない。映画とはおもてなしではないか?そもそも、そこに座ってみている時は誰もが一人だし、クチコミや議論するのに適した娯楽でもない。クチコミや議論するなら誰でもアクセスできなきゃいけないが、上映中なら1000円かかる。上映後も著作権問題がうるさいことから共有・検証・議論というインターネット時代の楽しみ方をする娯楽とは少し違うと思う。

ブログは反対に読者との「喧嘩」だ。そもそも、「もてなし」と違って一方通行なもんじゃない。喧嘩というのは殴ったら、殴り返される。無料で見ておきながら、時間を無駄にしたなどとケチをつける不届き者たちのために、俺は10倍も20倍もかけて喧嘩するために文章を書いてる。バカバカしいが、喧嘩の面白いのは野次馬も寄ってくるし、常識や慣例はあっても明確なルールはないし…要するに「もてなし」と違って、寄ってきたやつみんなで盛り上がれる。(「勝負」というと言う言葉を使わなかったのは堅苦しい「喧嘩」よりも対立関係がフェアで堅苦しい感じがするから。)

もう一つ言うと、送受信が喧嘩の方が自由なんだよね。俺が売った喧嘩を読者が買っていたが、俺が読者になれば相手からの喧嘩を買うことだってある。あるいは、喧嘩してる誰かに対して加勢することもある。

るろ剣の映画を観ていて思ったのがこの「もてなし」の観念よりは「あんな大きな原作を映画にしたのだから、人に話題にされてしまう」という「喧嘩」の要素を多く感じて、喧嘩特有の力みみたいなものが映画にこもっていて非常に不愉快だった。具体的なイメージを挙げるなら「るろ剣ファンに「なぜ本気を出さない」と言われそうな無言の圧力を感じて、黙って睨む人達に向かって萎縮しながら「私はこれだけ頑張りました」と言い訳している姿がスクリーンを被っている」感じです。

最近、ネット配信されているアニメなんかはもてなしから、喧嘩に楽しみ方がシフトしてるから視聴者が書き込むことを予測または制御するような作りになっていたが、るろ剣の映画にもそういう要素が滲み出ていた。

  • 映画を見るのはある種の「禅」「プチ出家」では?

僕が一月に一度映画を観ないと落ち着かない「映画中毒」の理由を考えたときにそれは僕が「情報に囚われやすい人間だから」という答えが返ってくる。

状況に流されれば流されるほど、じっくり考える時間が欲しくなり僕は麻薬のごとく映画を見に行く。

「自分の頭だけで考えたい」と思ったときに映画は非常に最適なツールだ。まず、映画館の中で調べものができないし、考える材料も映画から提供される。次に人の意見が横から入ってくることはない(映画を観る前にそれを読むとネタバレになっちゃう)から、自分の頭の中で消化するしかない。
もう一つは映画館とか、舞台を見る座席が好きなんだよね。うまく言えないんだけど、あそこで一人になると裸一貫の一人の人間になれた気がして好きなんです。様々なレッテルから解き放たれて、たった一人になれるあの感覚が好きです。

人間というのは面白いもので、「個性」を他者との対比の中でみいだしてしまう。しかし、それでは他者情報が変わる・増えるとそのたびに自分の事も書き換えていかないといけない。同調・対立の結論があるならそれを「演じ」なければならず、良し悪しを評価するならそれを一々考えなければならない。あるいは自分に対するアクションだって日々増える・変わる事があるから自分がどういう位置にいるのかをごちゃごちゃとした頭で考えていかないといけない。

桜井章一という麻雀の達人が『「疲れる」は「憑かれる」では?』と自著で書いたことがあるのだが、僕はそのとおりだと思う。
「現代人は疲れている」と言うセリフを聞く度に「なんでかな?昔の人は疲れなかったのか?」みたいなことを思っていたが、これを「現代人は疲れている」にすると「何に?」という議論に変わる。
そして「現代人は「人間関係から生じる他者の目、自分のあり方を考えること」に(取り)憑かれている」と入れ、再変換すると意味が通る。

ちょっと強引ですかね?言いたいのは「映画館って場所は誰もが対等にもてなしを受ける場所だから、自分が持っている、疲れている、囚われている「何か」から解き放たれる場所である」と言いたい。そして、るろ剣の映画はそういう映画館の中で他者とのしがらみを映画の中にほのめかすような作り方をしたことが僕にとっては甚だ不愉快だ。いい意味で「忘れる」「捨てる」「消す」ために映画館に来ているのに、嫌なことを掘り起こして来る映画に感じて不愉快だ。

映画の発想、原作の発想、ファンからのプレッシャー(を感じる自意識)の全部が間引かれる事なく混じった映画にもてなされた私は胃もたれで倒れそうになった。…そういうお話です。