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かくいう私も青二才でね

知ってるか?30まで青二才でいると魔法が使えるようになるんだぜ?

衆愚経済社会という絶望〜評価経済社会はもう既に始まってる〜


今朝、こんな記事を見た。

「僕らは評価経済の高度成長期に入った」 週刊東洋経済インタビュー ノーカット版掲載! - 岡田斗司夫公式ブログ 「僕らは評価経済の高度成長期に入った」 週刊東洋経済インタビュー ノーカット版掲載! - 岡田斗司夫公式ブログ

前々から岡田さんについて言ってることだけど、岡田さんらしい「-50点」と「130点」が共存する80点の理論だからね。それをどう飲み干すのか…っていうところが試されるなぁ。

お品書き

  1. 評価経済社会とはなんぞや?
  2. もう来てるでしょ?そして、その走りが岡田さん。あなたじゃないですか。
  3. ますます劣化・閉塞感が進むであろう未来像をなぜ誰も語らないんですか!
  • 表層的な名称があんまり良くない。

評価経済という名称を見たときの第一印象の話をすることで、評価経済ってモノを本質的に説明していこうと思う。

そもそも、我々は「成果物」ではなく「評価」されることでお金を頂いてる人が多い。世の中には直接的にお金を生み出す人ばかりでない。間接的に…稼いだお金を効率よく運用する・コストを下げることを仕事にする人達(会社で言うなら管理や間接的に販売促進を図るような仕事)もいる。

自分でモノを作れる人だけでは経済を回すことができない。(正確にはできるけど、そうやるとすごく効率が悪く、脇が甘い組織なり、経済体型なりになる。)経済が高度化されるほど、多様な仕事の存在を認めざるを得なくなり、あらゆる仕事が協力し合って初めて大金を生む。その時に「貨幣を生み出すか」ではなく「仕事そのものの質(実績や資格、経験などで測定)」の「評価」が重要になる。

何が言いたいのか?それなりに組織の区分がはっきりした企業は個々人を「評価で経済される」ということが言いたい。(あるいは企業そのものも仕事を「評価されないと経済して」もらえない)

ここでいう経済は「選択」という言葉に置き換えるとしよう。
経済とは「貨幣」が伴うものだけではない。「流れ」そのもののことを言う。流れを最も最小の単位にするとそれは「選択」になる。良いものを選ぶ事。モノを右から左に動かすために自分が意思を示すこと。それが経済の一番小さな単位。そして、評価とは「ある一定の基準を設けることで、その中で良いものと悪いものを選別する事」だ。つまり、本質的に言えば、行動に移す前の選択の事を言う。

岡田斗司夫の定義付けがなければ、「評価経済」という言葉は経済かじった人からすれば「経済そのものが評価の産物だろ?炭水化物×炭水化物みたいなもん」じゃねーの?この言葉。では、本当の意味での「評価経済社会」は?あるいは僕が言葉尻だけで捉えた「評価経済」との違いは何か?

それは「評価の基準」と「評価を使う単位」にある。

企業・学校で人材を評価する際、評価基準とは誰が評価する立場になってもブレを少なくするために客観性を高めるよう心がける。これが既存の経済。(学校は貨幣が出回ってないから経済じゃない?違う。いい成績を収めた子、勉強ができると認定された子は伸びやすくなる。それを選択されたことは短期的には貨幣に結びつかなくても、長期的には財産になる。)

岡田斗司夫が定義する評価経済社会では評価は極めて主観的なもの。ツイッターのフォロワーでも、マイミクでもいいけど、すごく噛み砕いて話せば「友達が多い人」とか「ネット上で評判の人」とか…要するに「機会」だ。「人脈という資源」…それによってモノや楽しみ、あるいは貨幣を手に入れる「機会」だ。

岡田さんの言いたい事を要約するにこうだ。「近代的な経済とはモノにアクセスするための主流の方法は「貨幣」であり、貨幣こそが経済の大きさ、豊かさの指数であった。しかし、ネットの普及でこれから登場する経済とはモノにアクセスするための主流の方法が徐々に貨幣から人脈へと移行していく。が、貨幣も相変わらず必要で正確には「貨幣コストが少なくなるが、貨幣以外のものでアクセスできる選択肢も広がる世の中が広がっていく」」というものだ。

…うん。すごく新しく聞こえるけど、この経済って別にそれほど新しいもんじゃない。

俺のバアさんの親戚の菓子屋さんが生きていた頃、それこそ物心がついてまもないうちは浴びるほど菓子を食えた。俺の親戚が山奥に住んでいて、いつも冬になるとみかんを送ってくれた。おかげで、ダンボール1・2個はみかんが冬に常備されているという贅沢な家庭に育った。(※一人暮らししてからは、実家に帰る度に親戚から届いたみかんをいくつかもらって帰ってます)

評価経済社会を説明するときに岡田斗司夫はまず「貨幣以外でモノにアクセスできる」という事の説明から始めた。…まぁ、経済学をしらん人にはちょうどいいでしょう。でも、経済を知ってるか、知らないかに問わず、本当に知りたいのは「評価経済社会」でどうやって生きていきますか?(飯が食べられる体制をつくりますか?)という事。

この話で最もわかりやすいのが「オタキングex」こと「Freeex」という岡田斗司夫の個人会社。面白いのは彼自身が今現代「評価経済社会」の中で生きているという事。
システムを簡単に説明すると、岡田斗司夫が活動をするために必要なもの(本人の生活費・サポートするスタッフ・イベントなどに一時的にかかるつなぎの資金など)をみんなでカンパして出し合って成り立つ…という制度。大がつくほどの岡田斗司夫ファンが岡田斗司夫の生活費まで出して、バックアップする一員にまでなって、それでいて一番近くでその現場に出くわす。ファンにとっては泣いて喜ぶような贅沢を「働くことを通じて」実現している。その資金源によって活動するため、岡田さんはニコ生や雑誌への寄稿・テレビ出演ではお金を頂かない(断ってもくれるときはクラウドシティーという岡田さんがやってるSNSの方に投げてしまう)という状態になっている。

他にも、こんなのがある。
ニコニコ動画のゲーム実況プレイヤー「塩・胡椒」はコミックマーケットで二人で旅行に行くだけのDVDを1500円で売った。内容からすれば、長蛇の列ができるようなものでは決してないのだが、ニコ動で人気の有名人を一目見ようと集まったファンがDVDを完売までさせてくれたそうだ。

ネットでは「実況プレイヤーの人気はゲームで作ったものである以上、それを自分の人気として貨幣化するのはゲームを提供するメーカーへの背信・背徳行為だ」という批判も出たが、それが本当かどうかは別として「人気を貨幣に変える」という一つの方法論は示してみせた。

まだ、前例が少ないけど、知名度や権威・実績はお金にできる。その要領と元になる人気さえあれば、本当に「働かなくても」生きていける。もうちょっと正確にいえば「遊ぶように働ける人が増える」とか「かつては大きなパトロンが必要な商売(この場合は研究系)のスポンサーを自分で付けられる」ようになる。
これからの経済学は横並びにお金をもらったり、一定の基準の中で評価をいただくだけではない。その先…つまり、複数の人間が補完し合う。社会システムとしてやってた事を個々人でできるようになる。

ニートだって特技があればその輪に入れるし、大企業の肩書きもって立って何もなきゃ、仲間には入れない。そういうコミュニティーができてくだろうね。(※そもそも、大企業の中でちゃんと仕事してれば「評価経済社会」の枠組みの中に入ってくる必要性がないんだけどね(笑))

例えるなら「人気」という新しい通貨の台頭を想像してみてください。…まぁ、最後の章ではその絶望をお話するのですが。

  • 岡田さんに言いたくないけど、あんたはそれでもオタクか!!

と正直言って思ってる。評価経済社会と岡田さんのやってきた事って極めて矛盾してるって思える。
勘違いして欲しくないのは僕は岡田斗司夫ファンだって事。ファンだけども、この評価経済社会の「影、それも岡田さんが見てきたはずの影」を語らないところに卑劣さ・姑息さを感じて仕方がない。まぁ、「オタキング」ってもの自体が「オタクはすでに死んでいる」という本の中で消えた(投げ出された)存在なんですけど…。

わからん?わかるように言います。

評価経済社会の「評価のものさし」についての岡田さんの回答はこうだ。

――評価経済のモノサシは何か。

作っている最中。
例えば現状であるのは、ツイッターのフォロワー数とか。あとフェイスブック、ツイッターなどの数値などの数値から算出した「クラウトスコア」とか。
これは株価みたいなもの。
1億円を持っているより、ツイッターで100万フォロワーがいるほうが、いろいろできる。これがほしいというだけで、手に入るし、提供する、という人も表れる。

一言一句そのままにコピーさせてもらった。だが、これを読めば余りにも未完成。

>>作っている最中。
作れないよ。作れたら、既存の「客観的な評価の下で人間が経済する状態」となんにも変わらない。「人脈が機会を作り、機会を個々人の創意工夫によって、貨幣化・モノ化させる」のが評価経済なのに、そこに数値化できる要素を「モノサシ」として使うことが矛盾してる。機会の大きさがモノサシではないはずだ。それは選択肢であって、まだ何のモノにもできないし、なれない。その事は今現在でも良くわかるはずだ。

次行こう。

>>現状であるのは、ツイッターのフォロワー数とか。あとフェイスブック、ツイッターなどの数値などの数値から算出した「クラウトスコア」とか
>>ツイッターで100万フォロワーがいるほうが、いろいろできる。これがほしいというだけで、手に入るし、提供する、という人も表れる。


腹が立ったのはここですよ。いや、感情的な言い方だから「反論・意義がある」とでもしておこう。

少し話が変わるが、拙著『いい加減にしろよ〜さるラノベが示唆する「記号化するコンテンツ」〜 - とある青二才の斜方前進 いい加減にしろよ〜さるラノベが示唆する「記号化するコンテンツ」〜 - とある青二才の斜方前進』は東浩紀氏の「動物化するポストモダン」と構成される理論は極めて近いと言われている。もちろん読んでないので、似せようがないが「よく言われてるオタク論の元締め」がたまたま東さんだったそうだ。それを聞いても尖閣諸島漁船衝突事件直後の朝まで生テレビで、堀江貴文東浩紀両名の「国家同士の争いはもう古く、もし沖縄を取られたとしてもTwitter革命のように内部から外へ発信したり、植民地化の反対派が徒党を組んでなんとかする。ネットやTwitterはそう言った場面で役立つから、国家同士の争いばかりを考えるのは古い感じがする」という要旨の言い分を聞いて私はあきれ果ててしまった。堀江氏が経済動物的な事は前々から知ってたからさほど期待してなかったが、東浩紀については「早稲田の学者風情でも国際情勢や政治に関する意識はこの程度のものか」とうんざりしたのを覚えてる。(その後「AZM48」だったか、ビギンズナイトだったかというおふざけを見て「こんな奴の本を読んだら、バカになりそうだ」と思って読まない決意をしたのをよく覚えてる。)

僕は岡田さんにもそういう浅はかさを見たので、この記事を書いてる。

Twitterというのは下地であり、それ自体が万能足り得ないツールにも関わらず、40すぎのおじさん言論人達は口を揃えてTwitterTwitterと言ってるのを見ると「お前らはテレビが西野カナがいいと言えば、それを応援して、AKB48がいいと言えば、それを応援するような軽薄な奴らだろ?」と問いたくなる。(まれにちゃんとした理論を言う人もいるが、今回はそうじゃない)


まして岡田斗司夫という「大衆が経済しなかったモノを経済し続けてきた人」が大衆の力を信じる事にはいささか矛盾を覚える。私は別の記事でも「数はあったほうがいいけど、それは良し悪しとは何の関係もない」と述べているが、岡田斗司夫なんてマイナーな趣味であったかつてのオタクに属していた事、「それが良いものであることは庶民はわからないのだ」という貴族主義でモノを見てきた*1人だからわかってるはずだ。

大衆が基準が曖昧なままに流行や人気を選びすぎる世の中が如何に「低い方へ流れていくか」がわかるはずだ。

本当は岡田斗司夫以外でもわかる。「評価経済社会」の前に「主観的な選択」が通っていたのは「選挙」だ。政策をある程度わかってる人なら絶対にありえない選択を積み重ねてきたからこそ、政治が悪くなった。ちょっと政治・経済かじってる人はわかる。テレビが失言だと言えば、前後の経緯・モノの真偽を無視して「失言・失態」になる。

「声が大きい人の言葉が真実」になってしまう。ライトノベル神様のメモ帳」っぽく言うところの「事実ではないが、真実なんだろう」という日本語からすれば変な状態ができあがる。

自慢じゃないが、僕も一部じゃ人気者になっちゃったからこういう経験はしてる。別に名前だしてるわけでもない、一介のアマチュアブロガーですよ?(※プロとアマチュアの基準はメシが食えるかどうかです。メシが食えればプロ、食えないならアマチュア)*2

どれだけ人気集めようが一般市民の私に知ったような口でギャーギャー言いに来る人達のコメントを何百と読まないといかん。あるいは一個記事を読んだだけで、人格否定までしだす人も「評価」に含めないといけない。私は多少慣れてきたが、それを俗人にまで強いる世の中がどういうものかを考えていくとこれは頭打ちするか、みんなに広まってみんながしんどい思いをして生きていくかという想像が付く。

それをさぞ、いい社会のように語る岡田斗司夫の態度が「白々しい」と申し上げてる。彼自身が有名税を払い続けたり、オタクとして不当なレッテル貼りの中で生きてきた人ゆえ「大衆がバカ・経済するものは安直でわかりやすくちょっとだけ面白いもの」である事はよく知ってるはずだ。

ああ、はっきり言いましょう!!俗人はバカだ。常に時代遅れな自分達を「ナウい」と思い込んでる愚か者達だ。本当に偏見をとっぱらって面白いものをさがす人間を「オタク」と呼ぶなら彼らがなんの趣味であろうが、オタク足り得ない。

…正しいか、正しくないかの議論じゃない。重要なのは「数が力だ」という概念を正面から否定すること。それは政治経済の低迷、ヨーロッパが社会主義やファシズムなどのエリート統制型社会に走っていく歴史的経緯、テレビによる扇動的・衆愚的な社会などなんでもいい。証明する手立てはいくらでもある。

日本人のように潔癖性な「減点法」と、権威主義的に声が大きい人に追従する「はっきりしない国民性」でTwitterなどのソーシャルメディアを評価基準にすれば、ますます自分でモノを考えなくなり、大衆扇動社会になっていく。

一つ好例がある。今井哲也さんの「ぼくらのよあけ」というマンガでは小学生までTwitterっぽいツールが普及して、女子が学校と同じメンバーとそれで会話するというモノ。本音を言うために別アカを幾つも作り、レスが遅いとクラスで「敵」扱い。(子どもは視野が狭く一生懸命に自分の目の前のことをさも、世界の中心にいると思いながら真面目にやる。それ故に争いが絶えない。)

評価経済社会の本質はこれではないのか?今までは会社の中でのみ「評価で経済されていた」が、Twitterその他のソーシャルメディアによる繋がりが序列・力になるような事を公然と言われたら、いつ自分の主観(他者に経済されない状態を気にせずに自分のしたいことを追求する時間)をもてばいい?

24時間・365日サラリーマンやれと?誰かの目を気にし続けろと?しかも、その誰かが「多数派であることを振りかざすような愚か者」であろうとそれを丸め込めない人は減点されると?既存のファンが居ても、声の大きい人達がアンチに回り、それで人が群がれば炎上の烙印が押される。その監視された社会を福音として受け入れろ?

冗談じゃない!!

もちろん、メリットがある事は知ってるが、『>> 株価みたい 』に人脈・評価が主観という曖昧模糊に変動する世の中が生きやすいとは到底思えない。そして、それは岡田斗司夫という「ただのお客様(笑)」に異を唱える人が「お客の評価」に大きな基準を託す事に矛盾を覚える。

Twitterのフォロワがたった10人でもその10人が皆協力的で金持ちと農家とクリエイターと秘密を握った高官で…みたいにみんなで持ちつ持たれつで共同体が作れば、その人は「何も持たないもの」であっても世の中を楽かつ豊かに生きて行けるのではないのか?逆に100000人いようとその10万人が自分に協力的じゃなかったら、あるいはネガティブな意味でのフォローだとしたら、それは貨幣化・モノ化できないのではないのか?

そう思うと、岡田さんの理論は「的を射ている」が「未完成さ」も同時に帯びている。そして、私ならこれを「衆愚経済社会」と呼ぶ。「衆愚の分際で、動機も専門性も立場も問われず、相手のそれに関係なく、経済を下すことができる社会」とね。それは、「一億総マスコミ化」(わずかなことでも扇動されたり、大声で叫ばれる時代)であり、「一億総政治家化」(言葉一つ、言い方一つ気に食わなければ、職すら失ってしまう神経質で息が詰まる監視に置かれた時代)ではないだろうか?


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  • おまけ・参考資料

あんまり人気が出てきたので、ちょっとだけ参考資料を貼らせてもらいます。引用元はラノベから本まで色々です。

神様のメモ帳

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著者:杉井光
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特別好きって訳じゃないけど「中身がある」とか「真面目に書いてる」って事は認める。そういうラノベ。だから、ちらほらと言葉選びとか現実味とかの表現力に感心させられる。

ぼくらのよあけ(1)

ぼくらのよあけ(1)
著者:今井哲也
価格:650円(税込、送料込)


こういう感じの「理屈っぽさ」を持ったマンガを読んだことがなかったから、僕はすごい衝撃を受けた。今、個人的に酒を飲み交わしたいと願う商業漫画家の一位は俺ならこの作者。色々聞いてみたい


日本既成権力者の崩壊

日本既成権力者の崩壊
著者:日下公人


私が一方的に経済学の師匠としてお慕いしてる日下先生。非貨幣経済論とか静止経済(成長しない状態)での話という岡田斗司夫がやりたかったネタを得意とする人。(で、しかもちゃんと経済学んでるから理論が地に足ついてる)

*1:オタクはすでに死んでいるより

*2:記事の最後やサイドバーにアフィリエイトを貼ってるから「儲かってる」と思ってる方のために言いますが、一番稼いだ先月ですら、通信費と資料代(同人誌やラノベなど書評のために使ったもの)、電気代などブログのために使ってたものを全部引いたら、あとは何も残らないです。そんなのプロでもなんでもないでしょ?プロってのはそれだけに没頭してればご飯が食べられる人。贅沢かつアマチュアよりも有利な立ち位置だから「プロ」は勝たないといけない。違いますか?