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かくいう私も青二才でね

知ってるか?30まで青二才でいると魔法が使えるようになるんだぜ?

幸せの反対とは?〜大事なことは「彼女」から教わった〜


元ネタは岡田斗司夫ゼミです。以下の動画でニコ生上で岡田さんが「幸せの反対はイライラ」と言ったが、いくら岡田さんとは言え「そりゃ違うよ」と思ったので、僕なりの意見をかかせてもらいます。(※岡田さんの批判ではなく、代案なのであしからず)

お品書き

  1. 犬の幸せ
  2. 猫の幸せ
  3. 幸せの反対
  • 奴隷の幸せ

お品書きに書いた「犬と猫」は「集団と個人」という分け方。まずは幸せの種類の話からして、その後「反対」の概念やります。色んな切り口があるだろうけど、単純化すると最後は「幸せになるために必要な人間の数」なんだよね。(ここまでは岡田斗司夫ゼミと同じ。2パートまでは岡田さんの言ってることを僕の言葉で言ってるだけ)

幸せと不幸は「相性・好み」の問題で「どっちが幸せ/不幸」は一律に決められない。僕は「個人」の方が幸せで自然とネットと食うに困らない金があると孤独でも幸せなんだ。実際孤独になったことが人生で何度かあるけど、ネガティブな印象が苦痛なのであって本当に一人っきりになると一人で大声で笑えることが楽しくて楽しくて仕方なかった。

まずは犬の幸せだね。私は「奴隷の幸せ」って呼んでるんだけど…「規律・空気の奴隷」になる事で得る幸せだからそう呼んでるんだ。「奴隷」という言葉が生理的に無理な人もいるが、「従うこと」ぐらいに思ってもらえば結構。トゲトゲしい言葉を使うのが私の趣味。

「従う」または「従いつつも、誰かを従わせる」仲間同士で「幸せ」になる。他人から認められる、あるルールの中でgameに勝つ、大勢の人間を率いて何かを成し遂げる。…「社会性」の中での「誰かが決めた」幸せ…成功・栄光・名誉・尊厳なんて呼ばれるかな?

人間は「社会的でないと生きていけない部分がある」から学校にいるとそういう幸せばかりが教え込まれる。(その方が合理的だし、リスクもコストも低い。)私も小6〜高1までは群れるのが好きな人だったね。(友達と深く付き合えないと自己に否定的な感情を抱く人間だった)

だが、リスクも高い。「会社から出るとすることがなくなる」とか「友達との揉め事で人殺しをしちゃう」なんて事件や社会現象が報告されてるように「個人の権利」が拡大した現代には「自己」を見いだせなくなる危険性も背中合わせでつきまとう。(権利を行使できない自分の環境と自分自身に対して不満を覚える)
エヴァンゲリオンっぽく言うと「エヴァに乗れる私」しかない状態。名刺の「○○株式会社 ××部…課」だったり、生徒手帳の「○○高校 何年何組」みたいなものにしがみつき、自分が何者でもなくなると途端に何をしたらいいか、どう振舞っていいかがわからなくなる。

ちょっと話が変わるが、僕も集団の中で生きる意義を喪失した人間なんだ。僕がオタクになったきっかけはコンテンツでは「ハガレン」だが、サービスでは「ニコ動」だ。引っ越して友達いなくなって、好きなテニスも失った僕が読書ぐらいしかする事がないときに妹から「アニキ、面白いもの見つけたぜ。AIRってんだ。見てご覧よ」と言われて、一話目に「はぁ」と言いながら見た。

その後、カナ速で「おすすめアニメ」をチェックして、手当たりしだいに見た(ニコ動は途中で「権利者削除」を認めるから途中で見られるコンテンツが減るが、それでもTSUTAYA使ってみた。)←ネットで見ればいいって言う人いるけど、未成年で家が「オタク迫害主義」となるとTSUTAYAやゲオは本当にお世話になる。

密教信仰の如き「業」を経て、私は「オタク」の…それも「猫の幸せ」を知ることとなった。

  • 孤独な幸せ

社会的なものを突き詰めてきた世の中…ムラ社会の日本の中でこそ「オタク」とか「一人○○」の文化が流行ったと思う。

僕はさ…中学ぐらいに漫画・ドラマの見すぎか、中学・高校には体育館裏や屋上や…一人になれる場所、愛を紡ぐ場所があるんだと思っていた時期があった。(※実話)
真実は…まぁ、いいや。息が詰まるんだよ!教室の中で孤独な人にとって学校っているだけでも苦痛。会社の窓際族みたいに「提示まで待てば金がもらえる」という訳でもないし、先生も「仲間と盛り上がってるのが当然」で話すからもう…って僕みたいに2年しか孤独を経験してない奴よりは「おまえら」達の方がわかるだろう?

そうなると「自分だけの世界」を持ち始める。それが「ネコの幸せ」…奴隷と同じようにトゲトゲした言葉で言うと「孤独な幸せ」だね。美味しいご飯・自分のしたいことをする・自由に好きなことを言う・どこかに行く・何かを見る…制約が少ないから楽しい。他人を必要としない「満足」「幸福」「幸せ」「飽和」と呼ばれる。

ある人にとってはそれも必要である反面で、それだけだと「不安」になるんだよね。人間は「社会的な生き物」だから、一人暮らししてても、友達がいなくても「俺って浮いてる・どんな目で見られるんだろう」って言うことはほとんどの人間が考えちゃう。

純粋に「さみしいと死んじゃう」みたいな概念があるけど、私はだんだんと薄れつつある。「世界中でたった一人で、ツイートしても、作品作っても何の反応もない」というところまでいけばさすがに「なんで生きてんだよ!!」ならそうかもしらんが、それは社会性奴隷の幸せも「生まれてから死ぬまで土地に縛られ、人の言うまま働かされ続ける」と言うことになれば誰だって苦痛だろう。

結局のところ、幸せと不幸はここの好みによって異なるから「幸せの反対が不幸」にはならない。岡田斗司夫は「イライラ」だといったが、あれもウソ。考えてみてくださいよ。イライラがあるなら、イライラを取り除けば幸せになれる…つまり「プロセス」だとも捉えられる。「無い物ねだりのもどかしさ」であったとしても、ねだることをやめる・変わりのものを手に入れて妥協すると幸せになれる。だから、天下のオタキングの意見でも「変だなぁ」と思うのです。…って言い放しだとダメなので代案を出して終わりにします。

  • 幸せの反対は虚無。

この記事は岡田斗司夫ゼミを見たあとに自分がこんなツイートをしたことから始まった。


「虚無」という概念を僕に教えてくれたのは「イケナイ宝箱」といううつ病の彼女から借りた本。誤解を招いてるかもしれないから言うが、彼女というのは「she」の意味で「girlfriend」じゃない。

「イケナイ宝箱」はうつ病患者公認の「欝の時の気分を最も忠実に再現した本」だそうだ。その本の中によれば望んだり・選択するという「幸せになるために必要なプロセス」がぽっかりと消えてただただ時間だけがすぎる状態なのだそうだ。

鬱病は突然来るもので、原因も薬も個々人によって違うから「何で解決する」と言うことがないんだ。望んだり欲したりする事から一時的に完全に喪失する。体は起きてるのに、動く気がしない不思議な状態。例えるなら、植物人間みたいになる…ってのがわかりやすいかな?

その状態に入ると「幸せになる」って概念が働かないと思うんだ。何しろ行動ができないし、望む以前に「思考が止まる」からね。幸か不幸かすら考えられない人に「概念」何かないんじゃないかな?

現代人にうつ病が増えてるっていう現象は頷けるところがある。「奴隷の幸せ」で通してきた人間が急に「孤独な幸せ」に移る日が来たとき、もしくは「奴隷の幸せ」すらも感じられなくなったとき、「奴隷なのに幸せになれず、ほかが見当たらないとき」などだろうね。
「孤独な幸せ」は一度覚えてしまうと、それを阻むものは精神的なところよりも社会的・経済的な要素のほうが大きいのよね…元々人間って一人じゃ生きられないようにできてるのは「人間が生きていくのに必要なものが多過ぎるから」だからで、人間が物的に一人で生きられるように満たされるって状態は生き物の常識として想定されてないと思うんだ。(これからはあるとしても、昔にはなかった。)

押井守」作品の話の中で、イノセンスという作品に【人はおおむね自分で思うほどには幸福でも不幸でもない。 肝心なのは望んだり生きたりすることに飽きないことだ。】ロマン・ロラン)なる言葉がでてくる。

何も望まない「虚無」の状態はこの言葉の対極にある…と。押井守作品はこの手のエッセンスを盛り込む事が多いけど、彼なりの本質なんだろうね。虚無にも望まないことにもならないために必要なこととして、彼は「奴隷の幸せ」の方を推進してる。「孤独な幸せ」だと、自分の考えつくことの限界が来るし「予想外」がないから、意外と退屈しちゃうという考え方。(「凡人として生きるということ」)

僕は押井さんの作品も好きだし、その思想を読み解くのも好きだが、組織や人間の中にいて「幸せ」でいられるかというと、現代みたいに成果主義・個人主義が強くなると無理だと思う。一時的には可能でも恒久的にそれの中で生き続けるのは「一握りの贅沢」じゃないかな?と。

この記事のテーマ性を言えば、3つです。
1、幸福と不幸はそれぞれに違う表裏一体の存在であり、そのバランスの中で人間は生きてる。
2、その逆とは「虚無」で、望めない・解決できない…幸せになるための選択そのものを否定された状態
3、虚無にならないためには常に選択し続け、【広い視野で】考え続けないといけない。誰かがくれるとも、自分でしか作れないなど、リスクをあげるような事は考えず、様々な手を考えたら良い。

と。医者の友人や押井守さんは成功してるからこそ「奴隷の幸せ」で生きていけるけど、万人がそうとは限らない。競争は敗者がないと成り立たないから、勝っても負けても幸せに生きていく道を考えないといけない。
そら「勝ち負けの概念がない」孤独な幸せなのかな?自然と触れ合うのに、ご飯を美味しいと感じるのに「勝ち負けの概念」なんぞある?と。

孤独な幸せ自体が本能とかけ離れてるからあるところまで来ると自分から群れに戻って行く。どちらかというと本能通り「群れ」を優先するように世の中が作られてるからそこを疑ったほうが「個人の幸福」にはつながると考える

イケナイ宝箱―ようこそ鬱の世界へ