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かくいう私も青二才でね

知ってるか?30まで青二才でいると魔法が使えるようになるんだぜ?

私の死生観〜「命」は等価でなく、また客観的な基準もない〜


前に読者から「命の話が良かった」と言われた事があるので、その話をやりたい。私の「命への考え方」は世間一般からすれば、かなり変わっている。変わっているが、評価はされてるので、相応な考え方なのだろう。

お品書き

  1. 命は軽いんだ
  2. 軽いからこそ
  3. 意識するんだ
  • 前提:人命は吹けば飛ぶように軽い

僕は命なんぞ軽いと思ってる。他の生き物食ってる人間が「賢いクジラを殺しちゃいけない」とか「人命は地球よりも重い」というのは滑稽な話でね…そんなヤツを総理大臣にした日本も、クジラ保護のためにテロまがいの事も辞さないテロリストに寄付する欧米の金持ちも…世の中には馬鹿しかいないようだ。

要するにみんなバカ(笑)とりわけ、命の重さを客観的にしようとする奴何かは総じてバカ!倫理でも科学でも良いが、「命」なんぞという価値観はすごく「主観的」な存在だ。

ただし、命の前には金なんかいくらあっても無意味。美味も芸術も快楽も安心も…結局は命あってのもの。そう考えると「自分の命」は重い。その前提が重要なのだ。

かのデカルトさんも「我思う、ゆえに我あり」と言ってるが、そういうことだ。何も思わない人形・体すら存在しない「水と油の塊」などに自分がなったら、飯も水も食べられないし、好きな友達にもアニメにも出会えない。そもそも、「好き」という感情もない。

「命が等価でない」と述べた理由は「自分の命は地球よりも宇宙よりも重い」が、その他の命は自分とのつながり次第で変わってしまう事にある。

僕も色々な人を周りで失ってきたからその話をしよう。

私は近所に住む同級生を病気で亡くしたことがある。学校に長く休んでいただけに残影すら残らず、その弟や妹接しないと彼の死とは向き合えない自分がいた。朝から晩までして彼の死に対して考えたのはせいぜい2日だろう。それ以外は部活動で彼の弟・妹と出会った時や、学校の教師が「彼の死」をクラスをつなげるためのプロパガンダにした時ぐらいのものだ。

次に亡くしたのは祖母だった。これはかなりキツかった。会いに行く回数も多かっただけに、死んだという話を携帯電話で聞いたときは時間が止まった「音」がしたのをよく覚えている。…夏の日でね、急に風の音が消えてセミの鳴き声だけが虚しく響いて来やがったんだ!風は吹き続けてるのに、一瞬無音になって、その後にセミが「シャリシャリ…」と音を立てやがるんだ。

葬式についても幼いときから僕を下の名で読んで撫でてたような連中だけ、その仲裁として入る祖母の存在が消えたことには戸惑いしかなかった。初めて新築の家に引っ越してきた時に感じた「本当にここに住むのか?」と実感がわかないと似てるものがあった。

祖母の死は私の死生観を大きく作ったね。知人の死よりも、自分の行動を変えるものが多すぎた。初めて新潟に行ったとか、親戚と合う機会が減ったとか、相続の話を聞くたびに祖母の実家の事が頭に浮かんだりとか…

これが自分の直接の家族になるともっと大きくなる。父母が死ねば、僕が彼らを代弁しないと世の中から消えてしまう事になる。妻や子どもができて、死んだとなれば「なんで自分だけが生き残っているんだろう?」と喪失感と罪悪感に襲われる。

特に、自分の生み育てた子どもを失う人間の気持ちというのはその知人の死で人前で取り乱して顔を崩して泣きじゃくる母親の姿を見て、よく覚えてる。未だに亡骸の顔を見ようとしたときにそれを必死で伏せる彼の母親の姿が忘れられない。

僕は理屈っぽさの10倍感情的な人間だから、自分の息子・娘が死んだともなれば、あとを追いかねない。…あくまで想像の域を出ない話だが、自分よりも長生きして自分を看取るハズの人間を失う事をしたことがない僕には「そんな日は来て欲しくない」とつくづく願うばかりだ。

目の前で人の死を直視しても差があるのに、一端の政治家が「人命は地球よりも重い」と言うから腸が煮えくり返る思いがするのだ。

はっきりと言ってしまえば、アフリカの子どもが数秒に一度死んでるとの話を聞いても、僕には親近感が湧かない。頭の中で漠然と「悲しいことだ」と思う以上の事が思えない。もし、あるなら「いい環境に生まれた分だけちゃんと生きよう」という程度の話で、アフリカの子供のために我が身を犠牲にして持ってる衣類も資料も全部「彼らに寄付する」という気持ちにはなれない。第一、僕の小さい資産を寄付するぐらいなら、寄付しにいくための油を彼らの生活のために使ってやればいい。…違いますか?日本とアフリカは遠いのです。別に中国の農村部でもいいけど。

日本だっていいよ。ホームレスや失業者が飢えや自殺で死んでいると言われても、それは「死を悼む」感覚ではなく、「社会をどうにかしないといけない」という教訓になってしまう。

厳密に言えば、なんのつながりもない他人の死は「死」という感覚で処理できないのだ。

損得で考えれば、何の影響もない人の命が「重い」と言えば、心情的には正しいかもしれないけど、そうじゃないんだ。「命は尊い」かもしれないけど「重くない」んだ。銃火器や科学兵器…いや、自動車や発電所や高層ビルなど、僕らが便利だと思って利用してるもので人は簡単に殺せる。だから「軽い」。重たいなら死なない。軽いから簡単に死ねちゃう。あるいは人が損をすると分かっていても、自分がそこで「泣く」ことができない。

典型的なのはウォール街だ。リーマンショックが馬鹿な消費者や戦争バブルの崩壊によって起こった。しかし、一番初めに救われたのはウォール街だった。年収1億以上の連中もいる人間がただの不況では命の危険にさらされるわけじゃない。なのに、公的援助は先にそっちに行った。(※経済学の理屈は「銀行が潰れたら、潤滑油がなくなり、デフレ不況が起こる」という話になると思うが、この場合は違う。普通の収入に戻して、経営がなんとかならん時に援助すべきものを、自分達の懐は全く傷つけてない。)

東電でもゴールドマンサックスでも良いよ。公的資金がボーナスに使われても文句を言わない政府に「命が重い」なんて言われたくないね!!軽いんだよ!自分で地位に上り詰めないと簡単に虐げられる程度の代物なんだ。それをちゃんと自覚させないと、バカが付け上がるだけだ。

  • 自分しか自分を守れる人はいない。

ただし、「尊い命」になることはできる。それも2つある。1つは自分で自分の命を大切にすること。もう一つは誰かに「お前が消えると俺も困る」と思われる人になること。

1つ目はわかりやすくてね…世間じゃ、ちょっと自信を持つと「ナルシスト」だの「傲慢」だのと人の事を罵る傾向があるけど、自分に自信があることは良いことじゃないか!!

そりゃ、全く学習しない・向上する気がない人が「唯我独尊」だの「ありのまま自分・等身大の私を」と言われるとは違う。人からの評価を無視してでも「俺がいいと思ったら良いんだ!」という自身の裏付けをモテる人間になることが重要なのだ。

評価は人がするものだ。人がするものである以上、間違ってるものもある。もしも、偏差値であれ・会社の幹部であれ、資産量であれ、完全な基準で評価されているならそこに何の犯罪も疑いもなくなるはずだが、実際は違う。「俺は東大生だぞ。格が違うんだ」と言って飲んで暴れる人間が偏差値の正体であり、オリンポスや東電みたいに不正や隠蔽がバレたりする。

世の中に自分の評価を委ねるというのは「その勝者にとって便利な人間を演じる」ことで、それは自分じゃなくてもいいんだ。合格点を取れば、お前じゃなくたって東大に行くし、お前じゃなくてもその仕事をするやつなら誰だっていい。

それに気づくと「俺って何?」と自分が見いだせなくなる。それで「命の重さ」が曖昧になる。
日本人は昔から戦に負けたり、犯罪を犯すと「ハラキリ」文化があったが、あれは「御役御免」になったから腹を切る。「万歳」と言って突撃をする。

昔からムラ社会だったから「誰にも必要とされない=死」だという価値観がそれをさせる。

必要とされる誰かの為に生きるなら、捕虜になればいい。もちろん、捕虜の苦しみから逃げたいから腹を切る理由もあるだろうし、犯罪についても「再犯者になるから斬る」理由もある。だが、そんな客観的な理由ではなく、自分自身から生じる理由で「なんでハラキリか」を考えたら、また違った視点で映る。

村の死、国の死、規律への反逆は自分を必要としているものの喪失。そうなるから腹を切るという考え方を聞いたことがないので、敢えて言わせてもらう。

自分で自分の生きてる理由を見出したり、自分に価値を見い出せば、泥棒でも低所得でも嫌われる仕事でも生きていけるものだ。自分自身で「自分の命は尊い!そして、それが尊いのは自分の行いに対して正しさを見出してるからだ」と言えないと、結局のところ生きていけない。

村や国に生を見出した時代なら腹を切るのも良いが、今はそんな時代じゃない。ナショナリズムは危険視され、郷土愛は古臭いとレッテルを貼られ、「家族のような」会社も減った。そういう生き方ができる人はそれから追い出されたら腹でも指でも切ったらいいが、欧米的な個人主義を受け入れた時点で時代錯誤である。


2つ目は、自分で「自分を大切にしてくれる繋がり(コミュニティー)」を作ることだ。友達でもいいし、仕事でもいい、「家族のような会社」でもいいし、村の一員でも良い。それがあると「腐れ縁」でも「死ぬな」と言う人がいるから、とりあえず死ねない。


その本質がないから3万人もの自殺者を前にしても社会学者が本質的に問題の解決を説明できない。「無縁社会」などという言葉もできたが、無縁が悪いのではなく、無縁になったときに自分がどう生きていくかを答えられない人が悪い。

他方「縁がある社会」に対する知識人の見解は【戦前的】【束縛】【不便】【機会が少ない】と言ってるが、アレはアレで人の事を育てたり、救ったりしてる。どっちつかずの人間が落としどころを見つけられてないままに人を振り回してる

人の移動が自由になって居る時代なら、その中で「個」を見出す強さを教育などで強化せねばならないが、それができないから自殺する。

オタクが増えた理由もこれで説明がつく。勉学・仕事以外の自己を見出そうとしたときに話題を共有する友達を作ったり、自分自身だけのモノを作り上げたり…「個」を形成する上で、オタクになる、ひいてはそこから友達や作品を作ることが一番いい。
そう考えるからオタクになる人が増えた。そして、僕の場合はそれらの人よりも「自己」を強く見出したいから、同人誌の紹介を始めたり、同人誌だけじゃなくて政治経済の話もできる「アンテナがいっぱい付いたオタク」になった。

根本的なところでは繋がってる。

  • 「偶然」という神様

大した話じゃないけど、最後にこれだけ。

僕は宗教上の神様は信じないが、「偶然」という神様だけは信じる。同じ順番で同じ人生を歩む奴なんかいない。自分がとった行動・周りで起こった行動にはそれなりの意味がある。

私の高校時代の担任が「無駄なことなんかひとつもないから全部頑張りなさい」と言ってくれたように、勉強も運動も頑張った。そのほうが楽しい事に気付かされた。オタクになったら「にわか」と呼ばれたくないから頑張ったし、ブログを始めれば「楽しんでもらいたい・褒められるのが嬉しい・書き終わったあとに自分でも惚れ惚れして見返したい記事がかける」ことが嬉しくて頑張った。

器用貧乏な気もするが、それなりに色んな事をできるようになったから、人とは違う「命」の考え方を持てるようになった。

そう考えると、僕の高校時代の先生のくみあわせは面白いほどシナリオだっていた。
「勉強も運動も頑張れ」の先生→「絶対」が口癖の神経質な痩せた考えの先生→言葉を求めないと何も言ってくれないが、僕を分かってくれた先生

3年の担任から「いずれは親の気持ちがわかるさ」と言われて、共感はしないが「気持ち」は分かったものもある。挫折と努力の人でね、僕自身のへそ曲がりや尖ってる所を見ても「若いってのはこういうことだ」と許してくれた事には今になれば、すごく感謝をしてる。

ある雀荘のオヤジが「麻雀はみんなで完成させるもの。勝っても負けても、そこに自分が投影されていて、負けた方には自分の悪い部分が見えるものだ」と言っているが、これは「偶然」にはそれがあると思う。
なんでかは知らないが、自分が「知らなければならないもの」が偶然に投影されてくる。担任の先生でもいいし、滑り止めで受かった高校・大学でもいい。やっと決まった内定先でもいい。

その判断・その選択・その運命は見えない何かによって導かれてる。そして、それを突き詰めると「自分」の姿が見える。「偶然」という神様の存在を信じる理由は僕がそれに沢山気づかされたから。翻弄されて人生を送ってきたが、自由になったとき初めてその意味を見出したから。

「物事には順序ってものが」という決まり文句があるが、究極は「偶然」なんだろう。全部に意味があるという私が尊敬する教師の言葉を思い出せば、幾分か謙虚かつ主観的、そして「軌跡」に自信を持って見ることができる。いい友達・いい人脈が居るのだとすれば、それは自分のいい部分の投影で、幸せだと思える出来事も自分の行いの良さ。その一方で、ミスや不幸や失敗が自分に起因しない時でも、どこかにそれによって学べることがある。抱え込めばいいというものでもないが、冷静に物事を並べる意識・自分になろうとする心は持ちたいよ。

自分を見出すことが命の重さだと僕は思うが、自分を見出すためには周りのことに目を凝らさないといけない。それには偶然のできことや他人に巻き込まれた話も含んでの事だ。被害者意識を捨てて主体的にモノを見ないと「自分」が見えない。

環境を変えることが自分探しなどとぬかす奴がいるが、自分を探したければ、自分の性格と人生を年表にし、伝記でも書いたらいい。過去・現在がよく見える。いや、それがわかれば未来さえかけるかもしれない。…もし、未来が書けたならそれがますます命を重くするだろうね。


偶然の科学