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かくいう私も青二才でね

知ってるか?30まで青二才でいると魔法が使えるようになるんだぜ?

「物書き」の生態〜ブロガーが語る『田中慎弥会見騒動』〜


まえがき
僕はこの人の本を読んだことがないので、この人をどうこうするつもりはありません。最近、話題の商品や人物挙げただけで『ステマがどうだ』と騒ぐ輩がいるので、こんなバカバカしいまえがきを書かないといけない事がけしからん。

本題
芥川賞を受賞した田中慎弥さんは自身の記者会見で、沢尻エリカに勝るとも劣らない程の不機嫌な態度で出てきて、「とっとと(会見を)終わりましょうよ」という言葉通り、無愛想かつふてくされたまま記者会見をした。(詳しくは動画を貼るのでそちらをどうぞ。)

「社会人としてどうなの?」「みっともない」という批判の声がある一方で、相手が天下の嫌われ者である「マスコミ」であったこともあり、賛美の声もあった。僕はあの人こそ「物書き」だなぁ…と感動したけど、どうもそういうリアクションが他にないので、その話をやりたいと思う。

お品書き

  1. 前提・人間は合理的に変化する生き物である。
  2. 「物書き」の生態を語る。
  3. 同じクリエイター・アーティストでも全然違う。
  • 合理的にコツをつかみ、コツが人を変化させる。

学問は難しく捉えられすぎているが、実は身の回りで起こっていることを「言葉」や「理屈」にしただけで、別に難しいことなんかない。僕なんかは経済学部だが、経済というと「金融」が「為替」がと難しいことをやっているイメージがあるが、そうじゃない。

シンプルに僕らが良いと感じる「価値」が世の中でどう表現され、「価値」をより多く得るために人間がどんな行動をするかを考えるだけだ。だから、真面目に経済を学ぶと「なんであの人はこんな行動をするんだろう?」という疑問を感じ、自分で解決できるようになる。

経済学の言う「合理的な行動を読み解く技術」を逆手にとってみよう。人間はより効率の良く、合理的な判断・選択をするためにその場その場で慣れていく。「要領(コツ)をつかむ」とでも言えばいいのかな?

コツはモノの考え方まで変化させることがある。例えば、「銀の匙」という畜産を舞台にした漫画では、動物を殺したり、解体したりせねばならないシーンに出くわす。

原理的に考えれば、僕らはその家畜を食べて生きているわけだ。僕ら自身がスーパーの中で見ているものは動物や魚の死骸…それも肉に至ってはバラバラに殺害されたものを「うまそう」だの「脂がのってる」だのと言いながら…子供に至っては楽しそうにぷにぷにと鳥肉をパックの上から触って弾力を楽しんでいる。

だが、「生き物を大切にしろ」だの「血が怖いだの」という人間側の習性や倫理観もある。矛盾した理屈がぶつかっている。「この矛盾をロボットは克服できないから目覚めることはない。」(石黒正和『外天楼』)というSFも存在するくらいに、人間は矛盾している。

矛盾に対して、ある一定の答えを出す。これは畜産家であれば、生き物や食べ物への道徳観であり、ここの職業ごとに割り切らないといけない部分は違う。

では、文筆家という職業の場合はどのような「割り切り」や矛盾を抱えるのだろうか?

  • 「文章を書く」という傲慢さ

田中慎弥さんに限ったことじゃなく、「文章を書く」というのは長ければ長いほど・発信する相手が多ければ多いほどに、大変な精神力を使う。

何が大変かというと、イラストや音楽みたいに100点(の評価)をもらえないことが大変なんです。世間の人は文章を書くことだけは「自分でもできるんじゃないか」と思っているせいで、安易に「ここの言葉が」「この話が・意見が」とモノを言う。(人間の醜いところで、一方で「文才(※僕も言われたことある)」などともてはやしておきながら、心の底では「時間かけただけで、私でもかけるよ」と腹の底では思ってる。)

絵師やミュージシャンに文筆家のような眼差しを向ける奴は居ないが、文筆家は自分や他人が向ける文章への批判的な側面と戦わないといけない。

僕のブログも政治的なテーマやファンが神経質なアニメをやるとタコ殴りにされる。「ネタにマジレスするな」「この在日が!」「右翼め」「入門レベルが偉そうなことを言うな」など様々なことを言う。…いや、「自分で書けよ!」という気持ちでいっぱいなんだけど、建設的でない理不尽な批判もある。

僕の場合は相手の顔が見えないから無視できるが、田中慎弥さんのような芥川賞級の作家ともなれば、その道の著名人が自分の権力を振りかざして「選考員」だの「編集者」だのという肩書きの下で言いたい放題。

この営みを経験したことがある文筆家(ジャンルは問わない。作家からコラムニスト、果てはブロガーまで)は内面的な矛盾を抱える。一方で、謙虚な心で文章・知識・人の言葉を聞かないといけないのですが、理不尽な相手・的外れな相手の話を突っぱねる「傲慢さ」も必要になる。

どこまで突き詰めても完璧な思想も、完璧なストーリーもないのだから、自分の中で「これでいいだろ?」と人に言える線を惹かないといけない。「人に共感してもらいたい」気持ちが必要である一方で、「人の話を聞かない」側面を持たないといけない。

作家というと、「内向的」な生き物のイメージがある方も多いと思うのですが、実際は作家は他のクリエイターよりもずっと「外向的」な性格を持っていると思う。それは「アウトドア」という意味ではなく、自分以外の事に対して、関心ごとを示せないと生きていけないということにある。

孤独でないとわからない文学がある一方で、人の気持ちがわからないと文章が書けない。

この矛盾の中に生きている「物書き」という生き物は表面上は傲慢で花持ちのならない生き物になっていく。それは自分の精神面を守るために必要な措置であり、自分の時間と労力に対して、最後に「擁護」出来る人間は自分しかいないからである。

だから、田中慎弥氏が芥川賞を貰った時の感想について、「確かシャーリー・マクレーンだったと思いますが、アカデミー賞に何度も候補になって(落選し)、最後に受賞したときに『私がもらって当然だ』と言ったが、そういう感じ」と言ったが、僕には彼が正真正銘の本音としてそれを言っているようにしか見えない。

これを『ウケ狙い』でやっている人は作家という生き物がわかってない。もう少しはっきりと言えば、読み物も書き物もできない人間だと思う。僕は田中慎弥作品を読んだわけじゃないが、この人を見た時に「こういう態度を当たり前のように取れる人だから芥川賞を取れたんだ」と思ったが、こういう意見が非常に少ない。

先程も述べたように物書きには「吸収力」になる謙虚さが必要な一方で、自分の作品を開き直って肯定し続けられる「傲慢さ」が伴わないといけない。吸収力は早い段階に求められるから、2流までこられる人は来るが、1流になるために必要なの傲慢さは他人からではなく、自分自身が求めて付けるものだから、なかなかつかない。

それを付けた時に「一皮剥ける」という事を世間では教えてくれないが、文章を長く・意見を持って書いていくとそうなのだ。…僕ですか?あんな事出来ませんよ。支持してくれている人の人数や評価を盾に自信を維持している小心者ですから、あんな事を一人でズバッと言える人間は本当にすごいと思ういます。

いや、もっとすごくなると「批判すら怖くない」から「虚勢」「傲慢さ」「開き直り」がなくても自分が守られるんだけど、そういう作家は滅多にいない。書いているときは自分自身の批判と戦わないといけないから、その批判に対してだけはある程度の傲慢さを残しておかないといけないからね。

  • クリエイティブ色々

先程も述べたが、絵師や音楽家と文筆家は同じ「クリエイティブ」に属する分野だが、性格が違う。交流がある人種に限ってその「気質」を説明させていただく。

絵師の場合は懸念する事が全く違う。あるレベルをすぎてしまうと「ダメ」だと言ってもらえないため、自分の中で、絶えず自己批判をし続けないとうまくなれない。

例えば、僕も絵師さんの同人誌を紹介する記事を書いているのだが、絵の善し悪しを論じることはできたとしても「どうすれば、その絵師の絵が良くなるか」は僕に技術がないから説明できない。

僕だけじゃない。絵はやったことのある人じゃないと、批判ができない。いや、経験者でも相手が表現したいものを汲み取って批判・論説しなければならないため、絵師が求める「意見」がなかなか手に入らない。
そうなると絵師自身で「これでいいのか」と葛藤しなければ、自分の作品は向上していかない。そのため、絵師は他のクリエイターに比べて腰が低く、心配症になりやすくなる。作業自体が繊細かつ細かく、時間がある限り、限界まで手直しが利くから「目を皿にする」が言葉通りにできる人間の方が良いものが書ける。

文筆家はブログぐらいの長さならまだしも小説となれば、そう何度も推敲なんてできない!推敲しても作品のコンセプトをガラリと変えるような大変革は絶対に出来ない。(一ヶ所変えたら、それで矛盾が生じる繊細な作品もあるからね)だから、どこかで割り切らないといけない。そこが絵師と根本的に違う。

音楽家の場合はどうだろうか?これは「ボーカル」と「奏者」で違う。両方できる場合は「奏者」側に性格が傾くことが多い。
奏者は作家に近い性格があるように思える。微妙に違うのだが、共通する部分が多いように感じる。共通している部分はお互いが作っているものに対する(誰からも絶対にもらえる)100点はないため、どこかで自分は「ここにこだわりをもっているんだ」という芯を内面的に持たないといけないこと。

作家と違う部分は、作家の場合は「書を捨て街へ出」ないと、人の心がわかんない。それに対して、奏者は自分が研究するために見るものがどうしても限られてくるように思える。別に政治のニュースや街中の雑踏や、身の回りの人のしょーもない会話にまで耳を澄ませる必要はない。別にそれが無くたって作品は作れる。いや、あったところで、自分の感情をどこまで音に落とし込めるやら…。だから、作家何かに比べて内向的な側面を持つようになる。(そのため、「女にモテる」というイメージとは裏腹に、実際は交友関係が深く狭くなっていく。)

歌い手の場合はちょっと違う。これは踊り手も近いかな?あとコスプレイヤーも共通してる。
どういうことかというと、この3つはネット上で「オフ会やるぞ」と言うとよく集まってくる人種。文筆家・絵師は傾向として少なくなる。「カラオケをやるから」なんて理由もあるだろうけど、そういう問題じゃない。

あの人らって、すごく練習する割には披露できる場所が少ないんだよね〜。技術自体は「歌ってみた」なんてもんじゃなくて「歌っていただいた」に値する人はゴロゴロいるのに、そういう人でも注目を浴びられるのはステージの上だけなんだよね〜。

僕だってこのブログをオフライン・紙媒体で書いていたら、誰からも共感されないけど、ブログにすることでフェイスブックはてなブックマークで「共感」が示される。その共感と影の努力の間が歌い手の場合は「現実世界」で味わえるから大きいのですよね。けいおん!に出てくる楽曲の歌詞で言うところの「白鳥たちは見えないところでバタ足してるんです」って話で、それは「誰かに見てもらえないと自分達は白鳥になれない」んですよ。

そのため、歌い手・踊り手・コスプレイヤーのように少し見ただけで「すごい!」と言われるパフォーマー達は自分達が褒められる瞬間を求めて、どうしても外向的になる。(それがパフォーマンスを向上させる)
奏者もよっぽどうまい人、派手な人はそうなっていくんだけど、基本的に正面で歌うボーカルほど目立たないので、そういう風にならない。

あと、奏者は(音楽)オタクになりがちだけど、ボーカルは以外とそうならない。いや、なるんだよ?でも、奏者と違ってそれをそっくりそのまま再現することができないものがほとんどだから、好きになってもそれを真似できないことだっていっぱい出てくる。

…こういう職業病(趣味病)みたいなものが世間的に認知されたら、世間ではもっと自分に合った趣味や仕事を選べると思うのだが…あんまりこういう目線で語られないんだよなぁ。

こういうネタは面白いと思うんだけど。

  • 参考資料

田中慎弥
「共食い」という以下の作品が芥川賞を取ったそうです。文学に慣れ親しまない方も「話の種」だと思って読んでみては?


■銀の匙 荒川弘
鋼の錬金術師の作者「荒川弘」さんの作品。高校時代に農業学校にいた経験を元に執筆されたリアリティーの高い酪農学生の物語。(※これは僕も読んでます。サンデーで読むものがなかったけど、サンデーで「あおい坂野球部」以来に読むものが出来て嬉しいです。)

■外天楼 石黒正和
僕が最近読んだ漫画の中で一番面白いと思ったので、例え話としてこれの話をさせてもらいました。(※そのうち、この漫画だけを語って記事を書きます。)

実は…僕、大の石黒正和ファンなんです!だけど、周りに語る人がいないので、もしよかったらブログでもTwitterでもいいので石黒正和の魅力を語れる人がいたら絡んできたください。それ街、アガペはもちろん、短篇集もほとんど持ってます。

■富岳百景 太宰治
作家という生き物がどういうものなのかを意識しだすようになったのは太宰治が自分自身の話を小説の題材にすることが多かったためです。その時は自分が毎日ブログやmixiを更新する生活を送るとは思ってませんでしたから漠然としたイメージだったのですが、今となっては彼が内面的に葛藤している事が昔よりもよくわかる気がします。(タイトルは走れメロスなんだけど、富岳百景なども含んだ短篇集です。)


芥川賞にちなんだおまけを言うと、太宰治芥川賞がもらえなくて、嘆願書を出したことがあるというトリビアがフジテレビのあの番組で流れたことがあります。