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かくいう私も青二才でね

知ってるか?30まで青二才でいると魔法が使えるようになるんだぜ?

第五報、久ノ浜メインストリート!!〜ソノヒトノ頭ノ中デシカ生キ続ケラレナクナッタ町ナミトソレヲ再現スル言葉達〜


今までのあらすじ
津波被害を見に来た私は常磐線の果て『四ツ倉駅』から今は電車が通っていない『久ノ浜』の漁港まで行くことにした。時々被災者の気遣いや健気な復興への足取りに胸を打たれながら四ツ倉海岸四ツ倉港波立海岸久ノ浜住宅街と歩いてきた。

今回は
はっきり言います!!!取材で取った画像が一番酷いです!!!!

解体業者のおじさんが僕に言った事をここで言おう。
いわき市の海岸線沿いでは多くの人が死んだ。豊間、薄磯でそれぞれ180人づつ。そして、お前さんが行く久ノ浜でも85人が死んだよ。』

その予備知識を入れた上でこれらの画像をごらん頂こう。


シャッターを切ること?それどころか言葉を失って立ち尽くしたよ!!…2分ぐらいは沈黙して自分の口の中がつばでぬれている感覚を感じ取りながら見ることしかできなかった。あらゆる物を焼き尽くして粉と塊にしたものの中で『生きている』事を本能的に確認するかのように視覚以外の感覚は自分の口の中だけで働いた。

手足を動かす事を忘れて、どこを見ていいかわからず、ただ立ち尽くした。『動かなきゃ!シャッターを切らなきゃ!』と意識的に呼びかける。『だが、どこから?』自分の目の前を焼き尽くした物をどこから撮影する?『どうやったら、この壮大な焼け野原を最もわかりやすく撮る事ができる?』と脳内会議が始まった。立ち尽くして3分ぐらいしてやっと『何でもいいから撮れ!ここに立っていても何もかわらないじゃないか!』と自分に叫んだ事で手を動かし始めた。

10数枚の写真を撮ってから、海の方に地元の人が歩いているのを見つけて、私もそこに歩き始めた。

まだ、道路に瓦礫が出ていて片づけが行き届いていないところだったが、瓦礫を踏み越えるとそこには海が見えた。地盤が陥没しているせいもあり、あの低い堤防を乗り越えて、五歩ほどいけば海の水に触れられる距離だった。

そこにあった家の二枚の写真を見て欲し欲しい。

一枚が跡形もなくなり、土台しか残っていない写真。もう一枚は、土台を引き剥がして、家が半分浮き上がった写真。唖然とした?いや、そういう事よりも目の前に起こっていることの現実味のなさに実感が湧かなかった。『嘘だろ?』とつぶやく。この惨状を誰かに伝えたとしても多くの人は他人事であろうし、テレビ局も他の事件と同列のネタとしてしか扱わないだろう。でも、私がこの現場に立った時は恐怖で顔が笑った。引きつりながら笑った。どうしていいかわからなくて、笑った。だが、その横で海を眺めていた被災者の家族は言うんだ。
『これでも、だいぶ綺麗にされたほうだ』と。どこが?と狼狽したい気持ちだった。しかし、私がこの言葉を口にした瞬間に被災者・ボランティア・各種公的機関の50日を愚弄する行為だと思うと、当たり前の常識すらも口にする事がためらわれた。

海を見ていた被災者家族に『久ノ浜港に行くにはこっちに行くといい』と道を聞いてから、元の通りに戻ってきた。話しによれば、港は僕が来る前の日までは津波で橋が壊れて通れなかったことまで教えてくれた。


炭と瓦礫のメインストリートの真ん中で、お爺さんが一人私と目が合った。
『地元の方ですか?』
と問えば、『あそこに住んでいるよ』と焼けた蔵の方を指差した。

  • 77歳の近隣住民のインタビュー

私から見れば、瓦礫が道路に仕切られて、ごちゃごちゃに散乱しているだけにしか見えない風景をお爺さんが解説してくれた。
ここがこの町のメインストリートだったんだ。あちらに歯医者があり、あのシャッターが壊れているのはスーパー、今立っているところは元々は地元でも有名な豪邸だった。あの蔵や炭になってしまった松はすべてこの家の人のものだったよ。』

言葉とは魔法だ。ありもしない街・見たこともない土地、そもそも存在すらしてなかったかもしれないものでさえも、言葉があれば、存在を認識できる。おじいさんは通りを歩きながら、言葉の魔法で私の頭の中に町の原型を作ってくれた。

特に具体的に想像できたのは原型が残る小さな歯医者とシャッターが壊れて、中のレジスターや商品棚や冷蔵庫が丸見えになったスーパーである。
私にはシャッターが壊れて中がちらりと見える街の小さなスーパーに腰の曲がったおじいさんや台車を引くおばあさん、年配のオバサンが近所話をしながら商売をしている姿がイメージできた。

自宅近くの商店街や自営業のオバちゃんが商売しているところをよく利用するため、全国津々浦々のどこにでもある光景が頭の中にすぐに浮かんだ。だから、余計に悲しかった。

いくら魔法で脳裏に街が浮かんでも、僕の目はこんな物を見ているのだから…。

おじいさんは焼けたメインストリートを横切って、自宅へ案内してくれたが、自宅も窓ガラスが割れたり、床下浸水をしたり、家の鍵が壊れたりと大変な損害を受けたそうだ。
『雑誌の記者さんかい?』と聞かれたが、しがないブロガーですよ(笑)という会話をしていた。*1
年配の一人暮らしで、被害にあってしまった事を嘆きながらも、ボランティアの援助で自宅がもとにもどった事を語ってくれた。

歩き疲れたせいか、それともそのおじいさんの行為だからなのか?おじいさんの家にあったポットと既製品で勝手に作ったインスタントコーヒーがすごくおいしかった。

今はライフラインが復活しているから生活物資をバスで買いに行けば、差し支えなく生活できるらしい。ただ、電話が通じないことだけが問題だそうだ。(せがれが成田在住で鍵なしの一人暮らしという事で、私としてはすごく心配だ!!)

そのおじいさんと話す話題も尽きたところで、お礼を述べて再び港へと歩き始めた。
おじいさんにたくさんの地元の方が声をかけてくるのを見て、かつてあったメインストリートはすごくフレンドリーな場所だったのではないか?そんな事を想像させられた。地元の人が
『泊めてくれよ。うちが流されて、瓦礫の片付けをするために避難所から通うのは厳しいから頼むよ。』
と言う話し合いをしているのを見た時は『共同体の強さ』ってものを再認識した。
東京で暮らしていると回りはみんな知らない人で、隣や下の階が引っ越した事すらも気づかないことがある。そんなところでは共同体などない!!そこに災害が来たときには福島県民のような助け合いが我々にできるのだろうか?

と問いかけて今日は終わらせていただきます。ここはもう一度通るので、その時のエピソードも書いて行きます。


次回
第六報、陸ヲ歩キ軽トラックヲ運転スル漁師達ノ戦ヒ


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*1:ちなみに、おじいさんはパソコンを持ってない上にケータイも持つ予定がないそうだ。だから、この場でこの取材の事を書いてもおじいさんが私が何を書いているか知る事もないだろう。それは気楽である反面で悲しい事だ。